24 地球の裏側より、心を込めて
私は彼がいなくなってから案の定、自分のするべきことが、居るべき場所がわからなくなってしまった。
ようやく遠い昔、阿久根が私に自分を重ねていた訳を理解した。阿久根の言葉を理解した。確かに私は学生時代の阿久根と同んなじだったのだ。
私は球磨川禊の行く先にただただついてきただけだった。だから、こうして放り出された今、やるべきことを見失い右往左往するしかないのである。
そんなままに卒業して半年が過ぎた。

ある日彼が雪山で遭難している夢を見て、いてもたってもいられなくなった。すぐにスポンサーを募りに駆け回って、気がつけば私は山に登っていた。冬の富士からはじまり、キリマンジャロ、エルブルス、マッキンリー、アコンカグア、コジオスコ、エベレストにヴィンソン・マシフ。気がつけばそこから二年で七大陸最高峰制覇を達成。未成年での達成。最弱年記録と最短期間記録を打ち立てていた。
それでも彼が見つからないから、今度は秘境へ出掛けて行った。お金はあった。あんな記録を打ち立てたからか、何故かコーヒーのCMに大抜擢され、それがヒットしたので、お金はたんまりあった。もともと贅沢を好む質でもないので、それを元手にしたのである。
シベリアの山中や、チベット高山、アフリカの砂漠にアマゾンの奥地。綺麗な蝶の死骸を見つけて持ち帰ったら、それが新種の蝶で、前の功績と合わせて大層な賞を頂くことにもなった。
私は旅の中でことにギアナ高地の瀑布、エンゼルフォールを気に入り、幾度となく足を向けた。山頂からだくだくと押し寄せる水流もあまりの高さに霧となって散ってゆく。それを見ていると、自分もこの世界の小さな飛沫の一雫でしかないことがよく分かった。
不思議な巡り合わせの連続だった。
たくさん旅をして、たくさんのものに出会った。強盗団や海賊にも襲われた。しかし、その頃の私にはまだ能力のかけらも残っていたから負けることはなかった。後々彼らと話をしてみると、彼らの置かれた過酷な環境には考えさせられることばかりで、己の無知であることを知った。
その後も、とにかく世界中どこにでも行った。資金が足りなくなると、その経験でちょっとした書き物やテレビに出るような仕事をして小金を稼いだ。
そうして、思いつく場所がなくなった頃には十年経とうとしていた。
私には一つだけ避けてきた場所がある。
初めて彼と出会ったあの路地だ。あの場所は私にとって特別の場所だった。どこに彼がいなくても落胆せずに来たが、あの場所に彼の姿がなければ私はきっと泣くだろう。そう思って避けてきた。
そろそろ、行かねばなるまい。そう思って足を向けたのだ。私の後ろに道はない。前を見ろ。めだかちゃんと、安心院さんからその言葉を私はもらった。それを大事にして今までやってきたのだ。
行く場所がまだあるなら、私はそこへ向かうだけ。前に進むだけ。

果たして、そこに彼はいなかった。ツンと鼻の奥にこみ上げるものを堪えて、私はそのまま路地を通り抜けようと足を早める。
「まちなさい」
呼ばれて立ち止まる。いつの間にか目の前に、老婆が座り込んでいる。
彼女はいつからそこにいたのだろう。私が気がつかないなんて。そう不思議に思うほどの存在感で老婆はそこにいた。
「お嬢さん。時々テレビに出る娘だろ。知ってるよ」
老婆は言った。私はありがとうございますと頭を下げる。
「お嬢さん、君は随分色んな所へ行ったんだね」
老婆は優しい声音で語りかけてくる。普段なら、このようなおしゃべりには付き合わないのに、何故か足が止まった。
「そしていろいろなことを考えたろう。どうだい。君のやるべきことはみつかったのかい?」
そう問いかけて、からからといたずらっぽく笑った。
なんだかその姿が、懐かしい人を思い起こさせて、私は口を開いていた。
「随分と見透かすようなことを言いますね。でも、そう。ずっと考えてました。私のするべきことはなんだろうって。でもね、そんなこと考えるのはいつのまにかやめてしまいましたよ。私に出来る事がわかってきたら、勝手にどんどんやりたい事が溢れてきた。行きたい場所が増えて行った。今は体が追いつかないくらい」
老婆はそうかそうかと嬉しそうに頷き、私の手を取った。
「沢山の経験をした、いい手をしてるね」
そういいながら私の左手の小指に何かを結ぶような動作をしかけて、不意にその手を止める。
「君にはもう、これは必要ないね。君は大人になった。もう、一人で立派に生きて行かれるくらいに。
もし、迷うことがあるのなら、君が旅の中で一番気に入った所にもう一度行ってみるといい。確かに前を見ろとは言ったけど、君は極端だ。いいんだよ、たまになら後ろを振り返ってみたってね」
老婆はそう言うと鈴の音のような声で笑って私の後ろを指差した。思わず振り返るが、そこには私の来た道のあるばかりである。
前に目を戻すと、もうそこには老婆はいなかった。
「まさかね」
そんな事を呟きながら、私の目は細められ、唇はにんまりと弧を描いている。
私はその足で飛行機のチケットを取り、成田からギアナ高地へ向かった。途中で装備を整えながら、幾つもの飛行機や電車、車、徒歩を経て現地に一番近い村に着いたのは三日後の昼過ぎだ。
村に着くと、一人の男性が近づいてきた。彼は、以前ここへ来た時に一ヶ月ほどお世話になった家の大黒柱である。私の探し人は見つかったかという話をしながら、彼はいま、村が慌ただしいことも教えてくれた。どうやら、旅人が行方不明になっているらしい。なんとも言えない胸騒ぎから、私は捜索を手伝うことを申し出た。彼は、土地に慣れないものが森を歩くことには渋ったものの、最終的には認めてくれた。
私は真っ先にエンゼルフォールへ向かった。老婆の言葉が頭にあったからだ。
お陰様で山歩きには慣れていた。一番大事なのは万全に準備をすることだ。もともとエンゼルフォールを目的として来ているのでその辺りは万全だった。
瀑布は相変わらずのスケールで私を迎えていた。雲より高い滝の始点を見上げてから、私は辺りを探し始めた。近づくほど、滝の水がみんな霧になって視界が悪い。雨季の瀑布は一層多量の水が降り注いでいる。一寸先も見えない中で、昼間だけれど懐中電灯を照らしながら歩き続ける。
何かを踏んで私は飛びのいた。真っ白な視界に入る真っ白な布の塊。
それは人間であった。
「大丈夫ですか」
慌てて起こした人物の体は水に濡れて冷え切っている。山を歩くのに大事なのは万全の準備だ。特に身につけるものには細心の注意がいる。こんな軽装でと、言葉を失いながら顔を確認する。
私は何も言えないでいる。
彼はうわごとのようにか細い声で何かをしゃべっている。とにかくここにいるわけにはいかないので、鞄から予備の上着を取り出して彼に着せ、背負いあげて歩き出した。
耳元でうわごとが聞こえる。
「おかしいな。やっぱり僕はもうダメらしい。咲夜ちゃんの声が聞こえるよ。君は僕を迎えに来たのかい。まぁいいや」
懐かしい懐かしい声だった。背は伸び、髪も髭ものびきっていたけど、彼は間違いなく球磨川禊、その人だった。飢え、水に体温を奪われ、ほとほとの体で拾われる辺りが実に彼らしい。
「僕は色んなところに行ったよ。君が登った山は全部見に行ったよ。他にも君が行ったとテレビで言ってたところには全部行った。おかしいね。君から逃げ回っていたはずなのに、いつの間にか僕が君を追っかけてたんだよ。そしてね、そうするうちに、世界の広さを知ったよ。本当に世界は広かった。僕なんてちっぽけなもんだったんだ。
ねぇ咲夜ちゃん。いつのまにか君は僕を追い越して、遠くに遠くに行っちゃった。僕は追いつけたかい?」
本当に世界は広かった。私は箱庭で実に沢山のことを学んだ気でいた。でも、いざ外へ出てみたら、それだけでは到底通用しなかった。外へ出てから学んだことの方が遥かに多い。本当に世界は広かった。彼の言葉を聞きながら、私もそう思った。だけど、応える事が出来ずにいた。
私の目から鼻から、今まで溜め込んできたありとあらゆる思いが溢れ出て止まらない。しゃべるどころではなかった。
「ねぇ、お迎えの咲夜ちゃん。僕はね、この人生の最期に及んで思ったんだよ。君を連れてくればよかったって。僕や君が別々に見たこの凄い景色を一緒に見ればよかったって。おかしいね」
それっきり彼は口をつぐんでしまった。私は底冷えする心地がして、ますます足を早めた。山歩きをしていて本当によかった。能力はなくしてしまったけれど、体力が私に残っている。
村に戻ったのは夜になってのことだった。村人は私の無事を喜んでくれ、彼のためにすぐにドクターヘリを手配してくれた。
病院に運ばれ、彼はそれから三日寝込んだ。衰弱しているが、命に別状はないらしい。
私は彼の伸びきった髪を切ってやり、髭も綺麗に剃ってやった。痩せてガリガリになってはいたが、立派な大人の男になっていて、十年の月日を思い知らされた。
三日の間あまりに暇なので、売店で絵葉書を買って、名瀬さんに送りつけた。
しばらくして目が覚めた時、彼は死人でも見るかのように私を見て硬直していた。
「球磨川先輩っていうのもおかしいですね。球磨川さん。見つけましたよ。ずっとずっと探していたんです」
震える声で語りかける。
彼はしばらく惚けて私を見つめ、それから、やがて私が本物であると分かると彼は呟いた。穏やかな声に、少しの涙を滲ませて。ずっとずっとずっと聞きたかったその言葉を。
「ああ、ぼくはまた、勝てなかった」
言葉に詰まりながら私は彼に労いの言葉をかける。
「でも、この私から球磨川さんは十年も逃げ延びました。こんなに必死だったのに」
「随分と楽しそうに見えたけど」
「楽しかったんですよ。球磨川さんの見えない影を追いかけて、もしあなたが私と同じ景色を見たらどう思うのかって考えるのが、楽しかったんです」
そんな風に話をした。話は尽きずにいつまでもいつまでも話したいことは互いに溢れて止まらなかった。
彼はかっこをつけなくなった。ありのまま、そのままにしゃべる姿は以前より増して落ち着きがあった。彼は心まで大人の男性になっていた。
その彼は昔、私を箱に例えた。パンドラの災悪の箱に。あの頃の不幸せな気持ちでいっぱいだった箱は、気がつけば幸せな思い出の詰まった宝箱に変わってしまっていた。みんなとこの人のおかげで。
会話の途切れた頃、私達はどちらからともなくポケットから小さな包みを出していた。何も言わなくても、不思議とお互いにその中身を知っている。
無言で開けて、中の小さな箱を開く。
「もし咲夜ちゃんが僕を見つけられたら、渡そうと思ってたんだ」
彼が私の渡した指輪を日にすかせながら言う。
「私もおんなじ事を思っていました」
お互いに指にはめてやる。気恥ずかしくて、顔が火照って仕方が無い。球磨川さんのくれた指輪は私にはぴったりで、私のあげた指輪は彼には少し小さかった。
その指輪は球磨川さんの小指にはめられた。
それから数日、彼の退院の日、私は一つの事を思い出していた。
「あ、今日だ」
しまったという顔の私を気遣うように球磨川さんが覗き込んでくる。
「なんだい?」
「安心院十年祭ですよ。毎年、安心院さんのいなくなった日にね、皆で集まってわいわい騒ぐんです。それが今年は今日なんです」
「なるほどね。でも、十年かぁ。長かったようであっという間だったね咲夜ちゃん。あの人はいなくなっちゃったけど、なんか死んだような気もしないんだよ僕は」
その言葉に穏やかに私は微笑み返す。
「球磨川さん。戻ったってどうせ間に合わないし、もう一年でも二年でも一生でも、逃げちゃいませんか? ゲーム続行です」
そう提案した私はきっと安心院さんが気まぐれを起こす時のような、イタズラごころに満ちた顔をしているのだろう。
「いいね。だけど、一緒に行くなら球磨川さんはやめてくれよ」
私の手を取りながら彼が言う。その彼の表情もイタズラを思いついた子供のように明るい。
私はこほんと咳払いをして、その手を引く。
「じゃあ禊……さん。どこでも面白いもの見に行きましょう。もちろんどこまでも一緒に、です」
「しょうがないね、冒険家様はほんとアクティブなんだから。いいぜ、今度は僕がどこまででもついてくよ。例えそれが地獄の果てでもね」
私達は一歩踏みだす。これは終わりなんかじゃない。だって、いつだって踏みだすこの一歩がスタートなのだから。
人生は長いし、世界は広い。箱の中で一生を終えるのはもったいない。
蓋を開けて飛び出した世界は、いつでも私たちを迎えてくれるのだから。


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