13 足音
会長戦の朝、日の出の頃だった。リノリウムの床に響く足音で目を覚ました。聞き慣れた名瀬さん達のものとは違う。
私には予感があった。
横たえていた体をゆっくり起こし、暗闇の中で音のする方向へ目を向ける。心臓はどんどん鼓動を早めていく。真っ黒で小柄な人影がうっすら見える。破裂しそうなほどに膨らんで、今にもはち切れそうな心臓がのたうち回っている。
人影はゆっくりこちらに近づいて来る。だんだん目が慣れ、姿がはっきりしてくる。それと共にフラッシュバックする過去。
それは決して優しい思い出などではない。この体で先輩を絞め殺したあの時の感覚。あの時の先輩の瞳、声。私を拒絶する先輩の言葉。
何を私は許された気になっていたのだろう。思わず後退りする。
「過去からまだ逃げるのかい? せっかく鍵を開けてあげたのに。君だけ逃げ続けるなんて本当に酷いぜ、咲夜ちゃん」
「球磨川先輩……どうして」
そう。まずはそこからだ。この時計塔は今、名瀬さんが住み込みで管理している。簡単に入れるはずがない。名瀬さんが球磨川先輩を入れるとも思えなかった。
「それは簡単な話だよ。名瀬さんに頼んだのさ。君の親友の命と引き換えに咲夜ちゃんに会わせてって」
「そうですか」
名瀬さんにとって一番大事なのはいたみちゃんだ。彼女の身の安全を匂わされては、名瀬さんは従う他なかろう。
私はまた少し後へ下がる。暗闇より暗く鋭く先輩の瞳は輝いている。私に殺されて生き返った瞬間の目の色と同じ色が見える。感じたことのない気迫が先輩の体中から溢れでているのがわかる。
「あれ、怒らないの? 咲夜ちゃんの友達でもあるんでしょ?」
「だって先輩はまだ、いたみちゃんには何もしていないじゃないですか」
「まぁそうなんだけどさ。で、どうして僕から逃げようとするのかな?」
どうしてだろう。私はあんなにずっと先輩に会いたかった。そばに戻りたかった。なのに、どうしても目の前にすると身がすくむ。私の犯した罪が私を縛る。
「球磨川先輩は分かっていて聞いてるんでしょう?」
先輩の口がいびつな弧を描く。
「ああ分かる? 君に締め上げられたあの時、僕は本当に痛かった。死ぬかとも思った。そして、実際に一度死んだんだ」
私の表情を見て、球磨川先輩は満足げに目を細めた。
「でも、許してあげる。もう遠い過去の話だもんね。すごく痛くてつらかったけど許してあげる。だからさ、僕のお願い聞いてよ咲夜ちゃん」
先輩は私の前に屈んで、私の左手を取った。手がじんわりと温められる。
私の視界には先輩のつむじ。前髪に隠れた表情はうかがえない。
手が温かい。
胸の奥が温まっていく。先日の決意が胸によみがえってくる。
私は右手をそっと先輩の頭に乗せた。そっとその髪をすく。
「先輩は私が猫になっている間、ずっとこうして撫でてくれました。私、それがすごく嬉しかったんです」
顔をあげた先輩は不思議そうな、そして思い通りにならないことがもどかしいような表情をしている。
「先輩、私のしたことを許さないで。その代わりに私の『異常』をなかったことにしてください。そうしたら、私は先輩と同じになれる。私にはそれで十分です。私に出来る限りの事、しますから」
そう。こんな『異常』などなければいいのだ。もしかしたら『異常』を無くして私はこの蛇の姿から人の姿になる見込みが無くなるかもしれない。それでも、それは自業自得だ。それでいい。
「馬鹿じゃないの? 自らの『異常』を捨てるって? あんなチートみたいな『異常』を? 正気かよ。」
私は唇を引き結んで小さく頷く。どうやら私の決意は先輩に伝わったらしい。
「じゃあ、いいよそれで。って言いたいところだけど、残念ながら僕はもう『大嘘憑き』を持ってないんだ。安心院さんに大元のスキルを返しちゃったからね。今の僕にあるのは『却本作り』の方。だから咲夜ちゃんの『異常』をなかったことにはできない。でも、僕と同じになりたいなら、いいよ。螺子ふせてあげる」
私には段々、先輩が何を頼みに来たのかが分かってきた。先輩が安心院さんに『却本作り』を返してもらいに行ったのと、きっと同じ理由だ。
「あのね、咲夜ちゃん。僕はめだかちゃんと同じ条件で戦って勝ちたい」
先輩がぽつりぽつりと話し出す。
「だから僕は『却本作り』を取り返してきた。でもそれだけじゃめだかちゃんと同じ条件にはならない。彼女は他の人間と圧倒的に違う部分が『異常』以外にもあるだろ」
先輩の言葉の続きを私がもらう。
「たとえば、黒神めだかには脳のリミッターや反射神経がないことですか?」
先輩は大きく頷く。
「私に脳のリミッターをこじ開けろと?」
「そう」
「……わかりました。でも約束してください。必ず開けた鍵は戦いが終わったら閉めさせてください」
「わかったから早く開けてよ」
私は少し考えてから、先輩の耳に言葉を囁く。
がしゃん。
重い錠の外れる音。
先輩は左右不釣り合いな笑顔で、大きな螺子を取り出した。
「ありがとう。これはお礼」
そう言って、勢いよく私の胸の真ん中にその螺子を叩き込んだ。
胸に強い衝撃。床に強く叩きつけられた己の体が跳ね上がる。頭がくらくらして意識が薄れていくのは、頭をぶつけたかだろう。
私が最後に感じたのは、先輩の手の感触。私の頭をなぜる、優しい感触。

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