08 世界の全てに鍵をかけて
猫から戻れなくなってからは生徒会室に寝泊まりしていた。食事には困らなかった。みんな猫の私には優しかったから。
もうこのままいっそ猫でいいや。思ってしまうこともあったけれど、やっぱり人に戻りたかった。人になりたかった。
先輩は毎日一人で生徒会室に来た。傷をつくってくることもあったが、頻度は少なかった。これには黒神めだかの存在が大きい。
それでも彼が傷ついていれば悲しかった。もう手当てすら出来ない自分が不甲斐なくて悔しくて。私はどうしてあの時先輩から逃げてしまったのだろうと、らしくもなく自分を責めてみたりもした。
全てもう遅かった。
何も出来ないなら、せめて最後まで見届けよう。
事件のあったその日、私はずっと本棚の上から全て見ていた。
安心院なじみが先にやってきた。さも最初からいたかのように机に腰掛けている。この半月の不在など最初からなかったかのように。
「本当に君ってやつは」
彼女が私にかけた言葉はそれだけだった。あとは黙ってそこにいるだけだった。とても空虚な表情で。

球磨川先輩がやってきたのは昼過ぎだった。普段よりもっと淀んだ瞳で先輩は笑っていた。既に先輩の瘴気には麻痺しているにもかかわらず悪寒が走る。挨拶も無しに先輩は喋りだした。
「『誰もいなくなったあの日、安心院さんは僕に言ったね。それは恋だよって。僕の醜い執着に名前をつけたね』」
先輩の低く淡々とした声だけがこの空間にある音だった。
そしてその内容に私は驚いていた。あの日、同じことを言われていたから。
「『あれから色々考えてみたんだけど、僕はかえってわからなくなってしまった。安心院さんは可愛いからね。もしかしたら僕が好きなのは、安心院なじみという人間ではなく、安心院なじみという体なんじゃないかなって。その顔なんじゃないかなって』」
先輩はゆっくりと螺子を取り出した。
安心院なじみの表情は変わらない。
「『だからね、自分を試してみようと思うんだ。安心院さんの顔がなくなっても好きでいられたら僕の恋は本物。だから悪いけど、顔を剥がさせておくれよ』」
言い終わる前にもう先輩は安心院なじみを螺子伏せていた。
「『抵抗しないの?』」
先輩の言うとおり、やけにあっさりと安心院なじみは床に縫い留められた。
やっと安心院なじみが口を開く。
「今の僕はね、球磨川君。たった五つのスキルしか使えない。他は全部咲夜ちゃんに鍵をかけてもらったからね。こうなっても抵抗できないように」
その言葉の間にも先輩は安心院なじみの体にいくつもの『却本作り』を刺していく。
「『……なんでもお見通しかよ。括弧つけてる僕が馬鹿みたいじゃないか』」
満足いくまで刺したらしく、今度は刃物を取り出す。
「心おきなくやりたまえ球磨川君。ついでにお願いするなら僕の事を殺してくれるとありがたいんだけどね」
これから顔を剥がれるというのに、安心院さんの表情は驚くほど穏やかだった。
断片的に安心院なじみがわかったような気がした。思えばヒントはこれまでにも沢山転がっていた。あの空虚な表情。最後みたいな言葉。そして彼女は言っていた。世界に飽いた、と。なんでも出来すぎる、死ねない彼女はこの世界に飽いて死にたがっている……?
その思考を分断する、つんざくような悲鳴。ついに先輩が顔を剥ぎはじめた。
私は冷やかに見つめていた。止める義理もない。それどころか期待してすらいる。もしかしたら先輩の恋心は偽物かもしれないと。やっぱり私も先輩と同じ『過負荷』にすぎない。
やがて悲鳴も聞こえなくなって、皮膚を裂く音だけになった。それもおしまい。先輩は額の汗と返り血を袖で拭った。その瞳に初めて明るい光が灯った。
「こんなになっても、やっぱり僕は安心院さんが好きだよ。僕の恋は本物だったよ、安心院さん」
括弧のない、誇張も嘘も微塵もない、等身大の言葉。彼の本音だった。
私の体が意図せず変化してゆく。もはや私はこの『異常』をコントロールできなくなっている。
どこか自分を俯瞰するような気分で、私はだらりと本棚から体を下ろした。ずるずるという音から察するに私の半身は蛇だ。安心院なじみがエキドナと称した姿をしてるのだろう。
球磨川先輩が異様な物を見る目で私を見ている。
私は上半身を隠すこともせず、安心院なじみの手をとって脈を測る。脈が薄い。かなりの出血と痛みによるショック。ほっておけばじきに死ぬのだろう。
「安心院さん、あなたの思いどおりになったわけだ。あなたは想定してそうだけど、私も少しはあなたの企みに抵抗させてよ。さぁ、これで安心院さんは元のなんでもできる安心院さんだよ」
がしゃん。がしゃんがしゃん。鍵の開く音を背景に私は先輩の前に立つ。この姿だと先輩を見下ろす形になってしまう。
「私ずっとそばにいましたよ。最後まで、誰もいなくなっても」
「『知ってるよ。わかるよ。近くにいれば』」
久々に言葉を交わせたのは本当に嬉しい。でも、この人はもう私のものにはならない。球磨川先輩は安心院さんを殺す事で彼女の全てを手にしてしまった。まだ死んでないけどもう間に合わない。同じことだ。
「先輩、私は気持ち悪くないですか? こんな異形の私は」
「『気持ち悪いってより、取って食われそうだね』」
それはいつか聞いた冗談。
「ああ、いいですね。私はもうどうせ人にはなれないみたいなので、それならいっそ先輩を食べてずっと一緒も素敵ですね」
でも、今の私には魅力的すぎる提案。だって、死者には勝てないもの。だったら私も同じ方法を使うしかないじゃない。
先輩ににじりよる。
「蛇ってね。飲み込む前に、飲み込みやすいように相手の骨を絞めて粉々にするんです。痛いと思うので、先にごめんなさい」
逃げられる前に捕まえて絞めあげる。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。」
絞めあげながら私は泣いていた。
「待ちたまえよ」
それはありえないところから聞こえてきた。倒れ、息も絶え絶えの安心院さんの口からだ。
「目の前でそんなこと始められたもんだから、死ぬのを思わず中断しちゃったじゃないか。確かに君の言うとおり想定内だけどね」
私の視界が低くなる。人の姿に戻されたらしい。球磨川先輩は、私の隣に倒れてピクリとも動かない。
「まず君は服を着た方がいい」
その言葉と同時に私はもう制服を身に付けている。
「邪魔しないで」
「それは無理な相談だよ。球磨川君は人間の中でも中々お気に入りなんだ。殺されては困るね。まぁちょっと手遅れ感はあるけど、些細なことさ」
安心院さんは血の海の真ん中で倒れたまま、表情もなく淡々と言った。
衣擦れの音。認めたくないながらも、ゆっくり私の首は球磨川先輩の方へ向く。
「『酷いよ。殺すことないじゃないか。でもよかったね。僕が死をも無かったことにできるスキルを手に入れて。これで咲夜ちゃんは無実だ』」
私は完全に負けたらしい。そもそも何と戦っていたかすらあやふやだけれど、負けたことをはっきりと自覚した。
「何をしたの」
「僕の『手のひら孵し』をあげたのさ『却本作り』と引き換えに。彼はもっと凶悪なスキルを作り出したみたいだけどね」
「……そう」
なんだか力が抜けて、ドアに寄りかかった。
「『せっかく僕が二度も気まぐれて突き放してあげたのに、君ってやつは。咲夜ちゃん、君のことは大好きだけど、それは愛じゃない』」
私は崩れるように外へ出て、あてもなく校舎内を歩いた。このあたりの記憶は曖昧だ。
なんとなくポケットに手を入れたらグシャグシャの紙が出てきた。阿久根の電話番号の紙が。
携帯を開いて、出た言葉は 「助けて」の一言。
「我々に任せるがよい」
私の後ろから声は聞こえた。携帯を握ったままの私を、黒神めだかが、人吉善吉が、阿久根高貴が追い越していく。
廊下に一人残されて、私は無力感に打ちのめされた。そして、その言葉を口にする。
「私は私じゃなかったらよかった」
私の顔かたちが変わる。
「こんな世界いらない。あんな異形の姿も、先輩との思い出も、『異常』も『過負荷』もいらない。いらないよ、幸せになれないなら。愛されないなら。嫌われた方がまだましだった」
がしゃん。

これで、おしまい。
次に開くまで三年間。私は、先輩に関することや自分に関する重大な事実を忘れ、元とは姿も異なる『普通』の人間として生きることになる。
災厄を撒き散らし、隅に微かな希望を残したまま、箱は再び閉じられた。

prev next
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -