07 名前をつけるなら
【エキドナ】(名)
ギリシャ神話に登場する怪物。美しい女性の上半身に、蛇体の下半身、背には翼がある。テュポーンと婚姻を結び、ケルベロス、オルトロス、スキュラ、スピンクス等、様々な怪物を産んだとされる。

彼とは違い、彼女は私をそう例えた。

「私が、なんだって?」
夕暮れの空き教室で私と安心院さんは向かい合っていた。
「気に触ったかな? でも本当なんだもの。球磨川君は咲夜ちゃんをパンドラの箱に例えたけれど、箱の中に最後まで残っていたのは希望の神エルピスではなくエキドナだったわけだ」
「何が言いたいの」
私にもよくわからないところから怒りが込み上げてくる。
安心院さんの声音は戯れるような軽やかなもの。
私はずるずるととぐろを巻く。その音は重たい。
「僕も君を形容してみただけさ。さらに話は変わるけれど、今の君みたいに女性が蛇身になる話があってね。あれは愛情が愛憎に変わる様を蛇に例えた話だったねぇ」
怒りが膨らんでいく。なんでもできるこの人をどうしてやろうか。すぐにも噛みつきたい衝動を強引に押さえる。そのためにずるずると、私は絶えず巻いたとぐろを締めたり緩めたりしている。
私の表情を見て安心院さんはわかったわかったという風に両手をあげた。
「まぁ簡潔に言えば、君のそのもやもや、怒り、悲しみ、喜び、その根源に名前をつけてあげようって話なんだけどね」
安心院さんは教卓から降りてこちらに歩いてくる。
「咲夜ちゃん。それは恋だよ。君は結局、球磨川君が好きで好きでたまらない。だから君は今、世界の全てに妬いている。世界に飽いた僕に、彼の気持ちが向いたことに妬いている。だから君の上半身は――」
「聞きたくない」
錠のかかる音がして、安心院さんの言葉が途切れた。
次に私の口から出た声はもうほとんど悲鳴だった。
「黒神めだかにしても安心院さんにしてもそうだ。この世の中に思い通りにいかないことがない、なんでも満足にできる人間に、私の気持ちなんかわからない。わかるはずがない。何もかもが思い通りにいかない。何もかも諦めて底辺で妥協する私の気持ちなんか。化け物に生まれた私の気持ちなんか。わかってたまるか」
肺の中の空気を全部吐いてしまったようだった。私は強くむせながら安心院さんを見据える。
「……想像はできても、わかりはしないだろうね。僕は君じゃないもの」
鍵をしたはずの安心院さんの口が開いている。これくらいの事なら朝飯前とでも言うのか。それが私の怒りに更に火をつけた。
「あんたも、私と同じになればいい」
明確に力を込めて、私はこの言葉を言った。化け物からのささやかな呪詛だ。
がしゃん。最初の一つを皮切りに、連鎖するようにがしゃん、がしゃんがしゃんがしゃん。鍵のかかる音は止まらない。私は安心院さんのスキル全てに鍵をするつもりだった。
ずいぶん長い間音は鳴っていた。
「咲夜ちゃん。僕は君に謝らなくちゃいけない。ごめんね、君をわざと煽って。僕は一度、普通の女の子に近づいてみたかったんだ。だからわざと君を色んな方法で煽ってきた。そうしたら最後に君がスキルを封印してくれると思ったんだ。この先どうしても使う一握りは意図的に残させてもらったけど、君は見事に鍵をかけてくれた。これは御礼さ」
視点が急に低くなる。私は人間の体に戻っていた。
安心院さんの言ったことが、したことが理解できなくて唖然とする。
「ちょっと因果を遡っただけだよ。前にもやって見せたぜ」
初めて会った日の事を言っているらしい。
段々頭が働きだす。何、それ。ごめんって何それ。普通になってみたかった? そのために私を手のひらで踊らせてきたというの?
「じゃあ、僕から君に最後の最後に二つだけ。君は気持ちが不安定になると『異常』も『過負荷』も不安定になるみたいだからね。しばらくは使うのを控えた方がいい。それから、糸は繋いだままにしておくから安心しなさい」
じゃ、さようなら。
そう言い残して安心院なじみは居なくなった。ここから、そして学校から。それからあの日までの半月、誰も彼女の姿を見なかった。彼女は消えてしまった。
最後のあの言葉は、まるで遺言のようだった。
ぐしゃぐしゃに絡まった糸のようなこの気持ち。整理がつかない。安心院さんは何故私と先輩をこれ程まで翻弄したのか。怒りはある。だけれども、それ以上に不可解な気持ちが大きい。
普通になりたい。その理由だけでは足りない気がするのだ。もっと何か大きな物を見落としている気がする。

阿久根が翌日、私を訪ねてきた。私を黒神めだかに会わせたいとの事だったが、二言目を言わさず断った。
先輩のそばにいるのは最早ちっぽけな黒猫一匹。私は先輩を一人にする気はない。
「困ったらいつでも」
阿久根は無理矢理、私の手に紙を握らせて去っていった。ムカつくほど綺麗な字で書かれた電話番号だった。
今ならわかる。阿久根は、阿久根自身と私を重ね合わせていたのだろう。同時期に球磨川先輩に出会った私と。

私は安心院なじみの言いつけを破った。やっぱり今さら、一年近くも経って無理だった。人の姿では先輩の前に立てなかった。黒猫になって私は生徒会室に向かった。
生徒会室のど真ん中に球磨川先輩は寝転がっていた。他には本当に誰もいなかった。
「『咲夜ちゃん。本当に誰もいなくなっちゃったよ』」
先輩はへらへらと笑っている。
「『安心院さん。昨日僕に言ったんだ。一学期が終わったら会おうって、それまでさよならだって。それまで僕は一人っきり。かえって気楽でいいかもしれないぜ』」
私は先輩の横に寝転がる。先輩が私の尻尾をもてあそんでいる。
「『あーあ、こんなことなら、咲夜ちゃんも高貴ちゃんも真黒くんも安心院さんも螺子伏せて壁に留めとけばよかったかな』」
体を擦り付けるようにしてぴったりと先輩に寄り添う。
一旦自覚してしまえばなんのことはない。私のこの重苦しくどろどろとした、見苦しくぐちゃぐちゃとした感情は確かに恋だった。愛と言うにはあまりに幼く利己的な衝動だった。
それが今私の体を焼いている。全身を巡る血が、私を燃やしていく。
今なら、ちゃんと先輩に会える気がする。ちゃんと話せる気がする。
もしかしたら、今なら私を見てくれるかもしれない。
衝動的に人になろうとして、失敗した。私の姿は黒猫から変わっていない。五度試して一度も成功しなかった。私は黒猫のままだった。
私は黒猫のまま戻れなくなったのだった。安心院さんの言うとおりだった。
猫の体では物を言うこともできず、慰めることもできず、それを嘆くことすらできない。私はただそこにいるしかできなかった。
虚しくてたまらない。
そんな気持ちを抱えたまま。結局、先輩に何も伝えられぬまま。私はあの日を迎えることになったのだった。

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