自由はもちろん金で買えるものではない。だが、金のために売り払うことは出来る。
/魯迅



※社会人設定

そんなに混雑もしてない。穴場という言葉が相応しいような雰囲気の良い喫茶店で机越しにソファーに腰をかけ向かい合う男女が居た。落ち着いた店の空気と、彼らに漂う空気はどうも異なるらしい。緊張感が漲る。


「暫く会いたくない」


あぁやはりか、と彼は思った。話があるとメールが来た時から、いや以前からそんな気がしていたそうだ。彼なりに予測可能だったのだから自分に可能な範疇で対応していたにも関わらず何故こうなったのか、と頭を抱えた。目の前で今にも泣き出しそうな顔をする彼女に手を伸ばそうとして止める。現状を鑑みて寧ろマイナスに作用すると悟ったのだろう。


「貴方は急に人を呼び出しておいて、そんなことを言うんですね」


また嫌味な言い方をしてしまった、と少し後悔しても遅い。いつからこんなにすれ違ってしまったのか。彼は自分の責任を感じる。時間問わず一緒に過ごしていた学生の頃とは今はもう状況も違っている。あの頃は幾ら言葉より態度が1番の比重を占めていたが、お互い別々の時間が増えて中々会えない日々の中で言葉というものは重い。


「ごめんなさい」
「謝ることはありませんよ」


心の底からそう思ってるのに彼女にはきっと怒ったように聞こえているのであろう、と予測する。社会人になって慣れない土地に配属された彼女の心は、彼には包み込めるか否かのギリギリのラインを彷徨っていた。


「最近貴方は謝ってばかりですね。負担ですか?」
「ごめ、あっ……。そんなつもりじゃないんだけど」
「僕がもっと傍に居てあげるべきでした。貴方を支えられないような男だとは思ってないでしょう」
「そういう所が嫌なんだけど」


彼女の発言に彼は呆れた。勿論彼女の性格上頼れと言っても頼らないのは分かりきっていた。それでも、頼るなと言うことも出来ずに居る。どんな会話パターンをシュミレーションしても解決策が見当たらない。かと言って人間関係は先送りには出来ないものである。


「そういう所とは?」


少し困った顔で彼は聞く。彼女は彼の表情を見て尚のこと胸を締付ける。彼女だって別に彼を困らせたい訳ではないのだ。寧ろ人一倍彼のことを考えているのは紛れもなく彼女だと言っても過言ではないだろう。それを彼のように上手く立ち回れる人間ばかりではないということだった。


「全て見透かしたような顔して全部分かられてるのが辛い。いつも私優先で自分のことはおざなりにして……そういうのが見てて嫌になる。私ばっかり……」
「私ばかり?」
「足を引っ張ってる。本当はお互い励まし合って頑張りたいのに。今あること全て投げ出して会えたらそれでいいや、って思ってしまうし、観月にも思って欲しいって考えちゃう」
「……僕のことは気にする必要はありませんよ」
「ほら!そうやって!結局観月の方が大人だから全部許してくれる。それじゃ……私の負担なんかちっともない……。全部観月の負担ばっかりだよ。でも結局そんな自分が嫌なだけなんだよ……。」


彼の素直な気持ちとしては驚嘆と表現する他ない。彼からすれば“そんなことか”と言ってしまえるようなものである。何故なら彼女は本質をちっとも理解していないからだ。そもそも彼は負担を掛けられているという自覚の一欠片すら持ち合わせていなかった。“許してくれる”と彼女が表現したことですら、何を許したかすらも覚えていない。彼からすればそんなことは一切合切どうでもいいのだ。本当に大切なものは1つだけなのだから。


「仮に貴方の言う通り僕が全てを負担していたとして、それの何が問題なんでしょうか」
「えっ」


今度は彼女が驚嘆する番だったようだ。自分が問題に感じている案件を、さも当然かのように何が問題だ、と言いのけられたのだ。それは彼女も驚いてしまうだろう。無論彼女の思考回路も理解していたが、彼にとってはこれが今や常識に取って代わられるものになってしまったのだから仕方があるまい。


「僕が貴方の傍にいる為に何らかの犠牲があったとしましょう。時間やお金、体力、はたまたメンタル面を危惧しているのではありませんか。ただそれを僕が分からないと思いますか?何事にもリスクとリターンは付き物です。どんなリスクがあろうとも貴方の傍にいることをリターンと考えれば充分だと僕が判断したんです」


余りに一方的に捲し立てたからか。彼女はポカンと口が塞がらない。彼女の様子に気付いた彼は少しバツの悪そうな顔をして咳払いを1つして息を整えて、こう言った。


「だから貴方は僕の傍に居てくれたら良いんですよ」


目も合わせず言った彼の余裕のなさは、過去に彼らが出会い恋に落ちた頃の面影があった。彼女は思わず、ふふっと笑を零した。少なくともこの先、数年の暫くは彼のお陰で彼らの安寧は保たれたようだった。
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