(虫がはうように)もぞもぞと動く。蠢動(しゅんどう)する。


 深夜の本丸に何かの蠢く気配を感じる、と言い出したのは粟田口の短刀達だった。彼らは皆が寝静まった夜半に泣き出すので、一期一振はすっかり手を焼いている。
 粟田口の幼い子たちはいつも「隣の部屋に何かいる」と喚くが、短刀達の隣の部屋は空き間なので人がいるはずもない。一期一振が仕方なく隣室を覗いて確認するが、誰もいないので、彼は「何もいないよ」と短刀達を宥めていた。
 しかしそんな日が何日も繰り返され、「たしかに、夜中になると着物の裾が畳にこすれる音がする」と、あの薬研藤四郎までもが気味悪そうに呟くものだから、粟田口の短刀達は部屋を移動することになり、件の部屋は誰も寄り付かなくなった。
 僕も気になって深夜にその部屋を覗いたことがあったけれど、取り立てて騒ぐほどのものはなかったので、皆には「何もいない」と言っておいた。実際、その部屋の住人は僕以外には見えていないので、嘘をついても問題なかったのだ。


□□□


 本当のところ、その部屋には女がいた。けれど怨霊ではなかった。だから悪霊祓いが得意な神社暮らしの大太刀共も彼女を視認できないのだ。
 初めて会った時、僕は彼女にこう聞いた。
「きみ、名前はなんて言うの」
 けれど彼女は白けた態度で答えた。
「そんなこと聞いてどうするの」
「別にどうもしないけど」
「なら私の名前なんて言う必要ないよね」
 結局、彼女が名前を教えてくれないまま、僕らの交流は始まった。というか、彼女は自分について何も教えてくれなかった。
「なんでこの部屋にいるんだい?」
「そんなの、少し考えればわかるでしょ」
 もちろん僕は彼女がこの部屋に閉じ込められている理由くらい察していたけれど、少しでも彼女の素性を知りたくて色々質問した。
「その服、着物とは全然形が違うし、審神者が生まれた時代の服だよね。きみも審神者だったの?」
「まさか。でもそういう家系だったから、近親に審神者がいたよ」
「それって僕らの主のこと?」
「……あの人は一応、家族だった」
 そう呟いた彼女の表情が僅かに曇った。彼女と僕らの審神者との間には、煩瑣な事情があるらしい。けれど彼女は自分が死んでしまったことに対して少しも恨みつらみを抱いておらず、全き純一無雑の幽霊だった。
「私がこうなってしまったのは私の責任でもあるから、あの人のこと、恨んでいないけどね」
 この恭倹があったからこそ彼女は怨霊にならずにすんだのだろう。普通、殺された魂がここまで清らかな地縛霊になどなれない。だから僕にはわかる。彼女は並の女ではない。おそらく相当な身分だ。厳粛で誠実な家に生まれたに違いない。


□□□


 彼女と出会って数ヶ月が過ぎた。おそらく、彼女の肉体はもうとっくに人の形をとどめていない。
「せめてもう少しマトモに葬られてれば成仏できたかもしれないのになぁ……」
 ある日、彼女がこう言った。
「この部屋のどこかにきみの本当の体があるんなら、僕がちゃんとしたところに移動させてあげようか」
 僕は親切のつもりで提案する。けれど彼女がにべなく断る。
「いいよ、別に。自分の死体なんて人に見られたくないし」
 断られることは容易に予測できていた。女は醜い姿を見られるのを嫌う生き物だから。それに僕も、彼女の醜い姿は見たくないと思う。時が経つにつれて、僕は彼女を無理に成仏させたいとは思わなくなった。 幽霊のままでいいから、今の美しい姿態の彼女といつまでも談笑していたい。戦ばかりの日々に草臥れた僕は、彼女とこの部屋で語り合う時間に何よりも安らぎを感じている。
「それにたぶん、私の親族の間で私はまだ生きてることになってるだろうから、死体が見つかると騒ぎになってあの人に迷惑がかかる」
と、彼女は続けた。あの人というのは言わずもがな審神者のこと。彼女が未だに僕らの主のことを気遣っているなんて、僕には不愉快で堪らないのだが、そんなことをわざわざ口に出せるほど僕と彼女の関係は深くない。
「でもきみ、悪くない死に方したんじゃない?幽霊になってもずいぶん綺麗な顔してるし」
「お世辞はいいから」
「お世辞じゃないんだけどなぁ」
 僕は本心から彼女のことを綺麗だと思っていた。幽霊ってのは大抵の場合、死んだ時の外傷が反映された醜い姿になるけれど、彼女は見たところちっとも痛々しい姿ではなく、せいぜい首に絞殺のあとがあるくらいのもの。だから彼女が死ぬ前も美しい外貌であったことは明々白々だ。佳人薄命とはこういう人のことを言うのだろう。
「あなたの主の審神者はね、よくお世辞で私のことを綺麗だと言ったよ。心にもないくせに」
 まるで雨上がりの木漏れ日のように婉然と微笑んだ彼女は、初めて僕に生前のことを語った。
「審神者は、その洗練された神気を保つために審神者の家系同士で結婚する仕組みになっていてね……私はあなた達の主君に嫁がされたの」
「ふうん。人間って今も昔もやってること変わらないんだね」
「変わらないよ。戦国時代に政略結婚させられたお姫様達と同じ」
と、彼女はぶつくさ言った。生前の結婚に相当不満があるらしい。
「自分でも今、気づいたんだけど、もしかしたら私がこの世に抱いてる未練って恋愛なのかも。だから成仏できないのかもしれない」
 そう呟いてから僕の方をチラリと見た彼女は、どことなく寂しそうに瞳を細め、不幸な笑みをたたえた。


□□□


 僕と彼女はいくつもの季節を共に過ごした。気づけば初対面から一年あまり経っている。
 彼女が生身の人間だったなら、僕らの関係はどうなっていただろう。なんてことを、夏の燦燦たる日差しに目を細めながらぼんやり考える。
 もし彼女が死ぬ前に彼女と会っていたら、僕はこれほど深く人間に魅了されることなど未来永劫なかったに違いない。
「幽霊になってしまったけど、にっかりがいてくれるから退屈しないし、今の暮らしも悪くないかな」
 自嘲気味にそう呟く彼女をまっすぐ見つめながら、「僕もきみと過ごす毎日は退屈しないよ」と答えた。彼女と過ごす日々がずっと続けばいいのに、と衷心から願う僕は、知らぬ間に、すっかり心を奪われてしまったようだ。
 刀剣男士になってから、刀の頃は知らなかった様々な感覚を身につけたけれど、人間特有の恋という感情を知ることができたのは彼女のおかげだ。襖越しに薄日を浴びる彼女は骨のように白くて綺麗で、どことなく憂いを帯びた悲壮の面持ちは名状しがたい魅力で満ち満ちている。こんな女が死んでしまったなんて非常にもったいない。もし彼女が生きていて、その繊麗な腕に触れることができたなら、僕は彼女の小さくてぬくい手のひらを一生離さず握っていられるのに。けれど、彼女がこんなにも僕を魅了するのは、死という悲劇を経たからこそなのかもしれない。
「……智に働けば角が立つ」
 唐突に、彼女が言った。
「なんだい、それ」
 僕は首を傾げる。
「私が死んだ理由」
 そう短く答えた彼女は、蜜事を明かすように悪戯っぽく笑った。
「正直言うとね、死んだ時は清々したって気分だったの。あの人との新婚生活も散々だったから。でも今、私、はじめて自由恋愛というものを知って……毎日がすごく楽しい」
 彼女は照れくさそうに僕の顔へ手を伸ばした。しかし幽霊なので触れられない。その手は僕の頬をすり抜けただけだった。
「……私、生きてる時に、またあなたに会いたい。そしてあなたに触れたい。だからもう、幽霊でいるのは止めようと思う」
 そして、僕に言葉を発する隙を与えず、彼女は続けて決心を述べた。
「あなたの気が向いた時に、私の体を見つけ出して、この本丸の庭にでも埋めてちょうだい」

□□□

 その翌日、厨で夕餉の支度をしている時、僕と同じく炊事の当番だった歌仙兼定に尋ねてみた。
「ねぇ、智に働けば角が立つってどういう意味か知ってるかい」
 普段、親しく話すほど仲がいいわけでもない僕がとみに変なことを言い出したものだから、歌仙は訝る素振りを見せた。
「なんだい急に。そんなの一般常識じゃないか」
 そして彼は「お節介かもしれないが」と前置きしてから続けて僕に警告してくる。
「ここ一年、きみが通いつめてたあの部屋、幽霊がいるんだろ。もうみんな感づいてるし、なにより主が気味悪がってる。この前なんて、主があらゆる手を使ってお祓いしようと躍起になっていたよ」
「へぇ……」
「最近の主、きみと関わりたがらないだろ。それはきみがその幽霊と仲良くしてるのが不気味だからさ」
「ふうん。まるで何か後ろめたいことがあるみたいな態度だね」
 僕がにっかり笑って相槌を打つと、歌仙は呆れたようすで告げた。
「きみ、そのうち本当に主から信用されなくなるぞ。本丸の秩序のためにも審神者と刀剣は友好的な関係を築くべきだと思わないのか?」
「ああ、そうだね。善処するよ」
 僕は適当に答えた。本当は主と友好的な関係なんて築く気はさらさらないのだが、こう言っておかないと歌仙に怪しまれる。
 たぶん、近いうちに僕は本丸の平和を紊乱する謀反人として同胞の刀達に殺されるので、親切な歌仙の助言も水の泡になってしまう。その点に関しては、歌仙に少しだけ申し訳ないと思う。けれど僕は迎合なんて真っ平御免だ。他の刀剣からいくら指弾されても良い。
 これは単なる謀反ではなく、刀が本能的に持つ殺戮衝動でもない。僕は、隠蔽された主の罪を裁こうなんて考えちゃいないし、穏やかな本丸の裏で蠢く主の悪徳を暴こうとしているわけでもなかった。忠憤や義憤とも違うこの殺意は、もっと個人的な感情だ。すなわち男としての妬みと痛憤である。
 情に棹させば流される。でも僕はそれでいい。いくらでも流されてやるさ。僕は僕のやりたいようにやる。せっかく人間の肉体を得ることができたんだからね。


□□□


 某日。深夜。誰にも気づかれず、僕は審神者を斬り殺した。そしてそのまま、生臭い返り血に塗れながら、彼女の魂が縛られている件の部屋を訪れた。
 音を立てないように襖を開けると、月影の中に佇む女の憂いを帯びた瞳が見えた。彼女は悲しそうに僕を見つめて、重たい口を開く。
「私……別に、あの人のこと、恨んじゃいなかったのに」
「でも殺されたんだろ」
「殺されたけど、あんなのは夫婦喧嘩の延長だよ。お互いに責任があった。それに私たちの時代には、痴情のもつれから起こる衝動的な殺人なんてよくあることだし……」
「でも僕はきみを殺した男を許せない」
 すると彼女はやにわにプッと吹き出して、真剣な僕を笑い飛ばす。
「ふふ、なにそのセリフ。まるで人間の男みたい」
「そりゃ、僕はもうただの脇差じゃないからね」
「でも人間じゃないでしょ」
「その人間じゃない僕のこと、好きになったくせに」
「そういうあなたこそ、死人の私を好きになるなんてどうかしてるよ」
「ああ、まったく、僕はどうかしてるさ。自分の主を斬ってしまったんだからね」
 自嘲気味に笑う僕に向かって、彼女も呆れたように眉尻を下げて微笑んだ。凄艷な笑みだった。その瞳に見つめられただけで、僕の心が優しいぬくもりに溶けていく。なんだか恥ずかしくなって僕は俯いた。胸が苦しくて、くすぐったい。心臓が激しく跳ね、僕の全身に熱い血を巡らせる。この気持ちを知ることができて良かった。これで悔いなく死ねる。僕がそう思って顔を上げると、そこにもう彼女はいなかった。彼女もきっと悔いなく逝ったんだ、と、そう確信した瞬間、燃えるように目尻が熱くなった。
 それからしばらくの時間をかけて、僕は部屋中を調べて回った。押し入れから天井裏まで、あらゆる場所に彼女の痕跡を探す。そうして最終的に彼女を見つけた場所は、畳をどかし、床板を引き剥がした先の真っ暗な床下。
 閉じ込められていた本物の彼女は、やっぱり透き通るように真っ白で、恐ろしいほど美しい女だった。僕はそっと彼女の全身を拾いあげる。少し力を入れるだけで、彼女の残骸はサラサラと風化し、粉々になってしまう。僕は嘆息しながら、彼女の白骨を蛍舞う庭の片隅に埋めた。
 見上げた空は白みがかっていた。夜明けが近かった。もうじき、他の刀剣達が目を覚まして僕を彼女のもとへ送り出す。
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