オットー・ノイラートが用いた比喩。知識の総体というのは港の見えない海上に浮かぶ船のようなもので、そのような状態でなんとか故障を修理しつつやっていかなければならない。「われわれは船乗りのようなもの--海原で船を修理しなけばならないが、けっして一から作り直すことはできない船乗りのようなもの--である」。これが含意しているのは、知識には土台は存在しないこと、また、全体が沈んでしまわないかぎり、部分的にはどの部分であっても修理をすることが可能であることである。


*二期五話補完・捏造


靴の踵を打ち付けるように喧しく響かせて憤怒の形相で現れた名字は、俺の隣にいた須郷の胸倉を掴んで止める間もなくそのまま壁に押し付けた。


「……璃彩を撃ったのはあんた?」


その言葉で、ああ、こいつも聞いたのか、と理解する。同じ公安に勤める監視官、耳に入らないわけのないニュースだと分かっていたが、思ったよりも早かった。
問われた須郷が目を伏せる。
言葉がなくとも、それで答えは明白だった。
須郷の反応に息を呑み激高した彼女は、目を見開き絞り出すように悲痛な声を出した。


「何でッ……! 何で確かめなかった!」


須郷の襟元を握り締めて、名字は何で、と繰り返した。
揺さぶられるまま、須郷は言葉を返さない。
ただひたすら耳と心が痛くて、俺は掴みかかったまま離さない彼女に向って手を伸ばす。


「……邪魔すんな宜野座」


呆気なく振り払われた手が行き場をなくして宙をうろついた。
彼女はまだ、悲しみと恨みと痛みがない交ぜになった表情のまま、須郷を睨みつけていた。
まるで焼けるような目線を受け止めながら、彼は一言、申し訳ありません、と口の中で呟く。
その謝罪を聞いた名字が息をつめてぐっ、と唸るのを見て、俺はやり切れなさでどんな顔をしたらいいのか分からなくなった。
本当は全部、彼女も須郷も分かっているのだろう。
あの場にいた須郷は、この国のルールに従って適正に犯罪係数の高い潜在犯を処罰したに過ぎないのだと。
たまたま……という言葉にすると随分と軽くなってしまうが、それが運悪く、最低最悪に悪く、俺と名字の同期で須郷の上司であったという、文字にするとそれだけの話。
手の甲が白くなる程固く握りしめた須郷の襟元を離してやるように、やんわりと握って促す。僅かに抗うような仕草をした彼女に一つ溜息をついて、色相が濁るぞ、と呟いた。


「……そんなに心配なら測ってみなよ」


俺の手に従ってだらりと両腕を下げた彼女が、静かにそう俯く。
感情の行き場をなくしたような状態のまま、泣いているような引き攣った笑みを浮かべながら、彼女は乾いた笑い声を洩らす。
そうしてちらりと須郷を見遣って、思い付いたようにああと口を開いた。


「あんたが私を測りなよ。そんで撃ってよ。係数が規定値超えてたら。出来るでしょ?」


璃彩にやったみたいに。
その言葉を彼女が言い終わる前に、ぱんと乾いた音が廊下に響いた。
俺が、名字の頬を打ったのだ。


「……滅多なこと言うんじゃない」


打たれた名字は暫し茫然と俺の顔を見つめ、やがて我に返ったようにごめん、と静かにそう言った。


「……頭冷やしてくるわ」


意図的に視線を合わせないようにしながら、名字はふいと顔を背けて俺達の前から姿を消した。
かつかつと響く踵の音が、段々遠くなっていく。





俺と青柳と名字、そして今はここにいない狡噛は、数少ない同期で仲間だ。
中でも青柳と名字は、貴重な女性同士の同期監視官ということもあり、非常に仲が良かった。
青柳の気性をよく分かっている彼女だからこそ、きっと最期の最期まで正義を貫こうとしたであろう青柳を、こんな形で失うことになってしまったのが信じられないし、認めたくないのだろう。
俺だって、全く同じ気持ちだ。
ぼんやりと一人そんなことを考えながらウイスキーのグラスを傾けていると、部屋に来客を告げるサインが鳴った。
こんな夜更けに誰だと思い相手を確認すると、戸口にいたのは名字だった。


「……どうした、こんな時間に」


見ると彼女は未だ昼間と同じスーツのまま。今日は確か夜勤シフトでは無い筈だ。


「……ごめん、急に」


問うと名字はばつが悪そうに視線を逸らした。
このまま突っ立っていさせる訳にもいかないので取り敢えず部屋の中へと招き入れる。
ソファに促して座らせ、俺は一人キッチンに立った。


「お前も飲むか?」


テーブルの上に置き去りにした俺のグラスを見て察したのか、「いや、お酒はいい」と首を横に振る。じゃあ何が良いと再度問えば、彼女は小さく、紅茶が良い、あったかいの。と告げた。


「……ありがとう」


望み通りのものを淹れてやり、湯気の立つマグカップを渡してやる。
両手で受け取る彼女の横に自分も座り、ふと、ああ、青柳にもこんな風にしてやったことがあったなと記憶が呼び起こされる。
一口飲んで微笑む名字の顔が青柳のと被って、図らずも鼻の奥がつんと疼いた。


「……頭は冷えたのか」


誤魔化すようにグラスを取って口元へ運ぶ。
最近癖になってしまった、喉を通る熱い感触。
色相が濁る前までは自分に近付けようともしなかったこの液体は、嗜んでみるとやっぱり止められなくなって溺れる潜在犯の気持ちが分かるような気がした。


「……うん」


だいぶ。
と答えた名字の表情は落ち着いていて、日中須郷に掴みかかった時のような荒々しさは影を顰めていた。


「……で、何だってこんな時間に俺の所に。お前今日当直じゃないだろう。さっさと帰って少し休め」


窘めるように溜息をついた俺の言葉を聞き流すかのようにずず、と紅茶を啜った彼女は、曖昧に頷いてふう、と、少し長く息を吐いた。


「……家帰っても、誰もいないから」


ひとりで、いたくなくて。
夜中に一人で男の部屋にやってくる女の台詞としては些か危ういものを感じながら、俺はグラスを傾けながらちらりと隣を盗み見る。
マグカップの熱さを吸収しようとするかのように両手で包むその姿は、いつもの毅然として任務にあたる彼女の姿からはかけ離れて幼く見えた。
――まるで、親と喧嘩して家出してきた子供のような。


「……なあ」


慰めてやろうか。
ほんの悪戯心のつもりだった。
グラスをテーブルに置いて、隣の彼女を覆うように腕を伸ばして影を作る。
茶化していつもの調子に戻って欲しかったのだ。
――しかし、弾かれたように俺と視線を合わせた彼女が、驚きの後に縋るような眼差しをしたのを見て、ああこれはもしかして失敗したかと、冷静に頭の隅で捉えた。しかし半面、どこか俺の悪い部分が、このままこいつの腕を取って組み敷いてみようかなんて、狡い思考をもたげようとする。


「……っな、なにしてんの」


現実に引き戻されたかのように、彼女の頬に笑みが浮かぶ。
冗談も大概にして。
苦笑して俺の腕をやんわりと押し返した名字は、取り成すように再び紅茶のマグに口を付けた。


「宜野座の癖に生意気だ」


口を尖らせて無理矢理笑顔を作ろうとする彼女は、切れ味のいいナイフで何ヶ所も薄く刺されたように、今も血を流し続けているような、そんな印象を持った。
傷まみれになりながらへらりと泣きそうに口元を緩める姿は、女だてらに公安の鬼と言われる常の姿からはまるでかけ離れている。


「……無理して笑うな」


すぐ手を伸ばせる位置にある彼女の頭を、ぽんぽんと二度、優しく押さえつけるように撫でてやる。
感覚を失っていない右の掌で感じるのは、柔らかい髪質と、生きている証の温い温度。


「……宜野座は変わったね」


俺の手を抵抗することなく受け入れながら、名字はぽつりとそう言って微笑んだ。


「俺が? ……ああ、潜在犯になったからか?」
「違うよ、ばか」


センスのない、とでもいうようにひらりと手を振って、彼女は宙に視線を遣って一つ一つ思い浮かべるように指を折って数えていく。


「あんたも、常守も、六合塚も、志恩も、皆新しい仲間を迎えて前を向いてるのに」


――私だけ、失ってばかりで取り残されてる気がする。
揺らいだ声は聞き違いではなかった。
俯いた彼女の肩が、心細そうに小さく震えていた。


「……ッ、」


嗚咽に紛れて呼んだ名前は、果たして一体誰のものだったのだろう。
聞かなかったふりをして、俺は彼女の頭を自分の肩に押さえつけた。
思っていたよりも随分小さな身体を身の内に閉じ込めるように、泣き続ける唯の一人の女の髪を撫でながら、俺は知れない誰かに祈るように、静かに瞳を閉じたのだった。
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