劣った者が優れた者に対して感じる、ドロドロした憤りのこと。反感、怨恨などと訳される。ニーチェの用語。
劣った者はこのルサンチマンの感情から、価値を転倒させることによって復讐を果たす。「わたしが弱者なのは、原罪あるいは社会の構造のせいだ。また、優れていること、たとえば権力を持っていたり富を有していたりすることは、必ずしも幸福にならない」と述べ、自分の立場を合理化する。



「それでさあ、ほんとありえないよね!」
 怒鳴るのにも近いような大声でそう言い切った彼女は、乱雑に缶ビールを掴んで一気に呷った。
 ごくごくと喉を鳴らしぷはーっと息を吐いてどんと座卓に空き缶を置く彼女の貫禄に一松は拍手すら送りたくなったが、もうすでに今夜は一回やっていたから内心だけで留めておいた。何回もやられると多分うざいでしょ。
 それにこいつが起きちゃうのも嫌だし、と一松は足の上に居る猫を撫でる。胡座をかいた膝の上で丸くなっている彼女の飼い猫は、飼い主の御乱心などもう慣れ切ってしまったのか、騒音にも動じず悠々と眠っている。
「ねえ、一松くんもそう思うよね?」
 すでに耳から首まで真っ赤になっていた彼女は、誰がどう見ても完全に酔っ払っていた。べたっと卓上にうつ伏せて見上げてくる目は、睨みつけるように鋭い。
 機嫌を損ねないように「ソウデスネ」と一松は応えたが、べつに彼女が怖かったわけではないのだ。酔った彼女を無視すると、長兄のようにうざったく駄々でもこねるみたいに絡んでくるから、近所迷惑を考えればそれもしょうがなかっただけで。
「だよね、だよねぇ」
 同意されたことに気分を良くしたのか、普段は腐れ縁と称している幼馴染はふにゃふにゃの笑顔を浮かべる。そのままだらしなく天板に片頬をくっつけて、彼女は大人しく目を閉じていた。
 特別アルコールに強くもないくせに、「お上品な合コンで、ろくに飲めなかったから」と、名前ちゃんはコンビニでしこたま缶ビールを買い込み今夜も帰って来た。ただの人数合わせで時折誘われる合コンやら飲み会の後は、大抵こんな感じに酔っ払って、延々愚痴を吐き続ける。
 あの子は彼氏に愛想を尽かされかけてるらしいからとか、先輩は婚期を逃さないように殺気立ってるみたいとか、後輩が上司に可愛がられるのも今のうちだけだとか、次から次へと口に出す。特に事情も何も知らないけれど、どう考えても難癖だとしか思えないような事柄まで並べだすのだから、アルコールパワーは侮れない。
 これだけ彼女やその他の又聞きだと言う愚痴まで聞き流していると、どんなにちゃんと仕事をしててリア充でも、結局人間中身はクソニートとそう変わらないんだと思った。こんなクズと一緒にされて最悪だろうから絶対に言わないけど。
 しかし残念なことに名前ちゃんは記憶にきちんと残るタイプらしく、こういった夜の翌日にはご丁寧に猫缶やら愛猫の写真付きでの謝罪の言葉が送られてくるので、彼女は概ね真面目な人間だ。その本性がどちらかなのかまでは判然としないが、こんな腐れ縁のニート男にまで気を遣うんだから、他所ではよっぽど我慢して生きているのだろう。以前は無かった栄養ドリンクや胃薬なんかが、最近部屋で目につくようになっていったように。

 すっかり大人しくなった名前ちゃんは、酔いのせいもあるだろうけれど、今日はそんなに顔色は悪くないようだった。ちょっとだけ開いた唇から、すうすうと危機感も全くなく寝息を立てている。
 合コンで普段より気合いの入った化粧のせいか、まつ毛はすごく長いし、唇は熟れてるみたいに赤い。口紅か何か知らないけど、飴みたいにつやつやしてて、噛んだら甘そうだった。絶対にそんなことはないと分かっていても想像してしまう。その赤い唇を舐めたら、どんな味がするのか。
 幼馴染だからって、男の前で安心しきって眠る名前ちゃんが悪い。さっきまでさんざん他人のことを悪く言っていた口なんだから、ちょっとくらい噛み付かれたって文句も言えないんじゃないの。
 そんな空想に耽っていた時、ぱちりと名前ちゃんの目が突然開いた。
 ぎょっとした一松は即座に背中を垂直にする。そこでようやく彼女の唇に吸い寄せられるみたいに顔を近づけてたことに気が付いた。無意識だった。危ない、危ない。
 何も知らない名前ちゃんはむくりと起き上がって、大きく伸びをしながら呑気に欠伸なんかしてる。空になった缶ビールを呷って、不満そうにもうないしと呟き、次の缶を掴んでプルタブを気前良く開けた。
 そのいつも通りの彼女の様子に、一松はなんだか急に気不味くなって、隠れるように顎に下げていたマスクを人差し指で上げる。
 自分が口を付けていた缶のビールはもうほとんど無くなっていたし、朝帰りなんて兄弟にバレたら何を言われるかも分からないことは元々するつもりもなかった。
 まあ兄弟がそこまで自分に興味があるとは思ってないけど、女の子の家に居たとなれば話は別だろう。だから名前ちゃんの家にちょくちょく来てることは誰にも言ってないし、知られたくもない。十四松あたりなら問題ないだろうが、長男なんかは女の子とこういう状況になっただけで迫りそうだし、末弟は頻繁に連絡でも取り合って余裕でデートとかしそうだし、三男はアイドルにしか興味無さそうだけど、クソ松はあれで結構面倒見良いから絶対に駄目だ。
 けれど所詮猫がきっかけで偶々鍵を預かっただけの僕なんか、もしもここに居るのが紫色のパーカーを着ただけの別の兄弟だったとしても、名前ちゃんにとっては大差ないのかもしれない。帰りの遅い彼女の代わりに猫に餌をやって、ちょっと愚痴を聞くくらい誰にだって出来ることだ。
 だから自分が実は猫の餌やりにかこつけて名前ちゃんの部屋に居座りたい、それどころか寝てる隙にちょっとくらい噛みついても気付かれなきゃ良いだろうなんて考えている奴だとバレたら、即刻絶交だろう。あくまでも自分は猫に会いに来て餌をやるついでに、ちょっと愚痴を聞いているだけのただの腐れ縁の幼馴染だ。でなきゃちゃんと立派に社会人やってる名前ちゃんがこんなニートに合鍵を預けて、あまつさえ缶ビールやら夕食なんかを恵んでくれているのは、僕を人畜無害だと思いこんでいるからに決まっている。

さすがに飲み過ぎたと自覚したのか、ひと口飲んだだけで名前ちゃんはプルタブをぱちんぱちんと手持無沙汰に鳴らしていた。
「そういえばさあ、一松くんは?」
「……え、何が?」
 彼女の愚痴はようやく底をついたらしく、不意に話題の矛先を向けられ一松は戸惑う。
「最近どう? 何してるの?」
「…………。」
 どうと聞かれても、ニートが毎日何してるかなんて、季節が変わったって世間ではイベントがあったところでほぼ変わり映えなんてしない。飯食ってクソして寝るのをベースに、毎日ダラダラと生きている。
「あー……、猫と戯れてるけど」
 どう答えれば良いのかと悩みつつ雑な返事をすれば、名前ちゃんはそっかいいなーと何が面白いのか満面の笑みで、ひどく間延びした声をあげた。
「六つ子くん達は? 元気にしてる?」
「えっ。……まあ」
「相変わらずニート?」
「……ニートですけど」
 別に隠す必要はないし、一部アルバイトをしかけていた奴もいたが、今は全員完全無職の認識だったので素直に教える。
 そっかーと相変わらず名前ちゃんはへらへらと酔って笑っていて、また眠たげな瞬きをしながら缶に視線を落とした。
 そして不意に訪れた嫌な予感というのは、大抵が当たる物なのだ。
「良いよねー、兄弟からのプレッシャーとかも無さそうで。うちなんか絶対無理だよ。数ヶ月アルバイトさえもしなかったら速攻で追い出される。あ、でもそうか、ニートって働いたら負けなんだっけ? それってちょっと羨まし……」
 顔を上げてこっちを見た彼女の言葉はぶつりと途切れ、緩んでいた表情がすっと失われていくのがありありと分かった。その目は大きく見開かれ、戸惑いと困惑に塗り潰されていく。
「ご、ごめん、私こんなこと言うつもり……!」
 まるで体温が急激に下がったかのように感じていた一松は、自分でも思いもしていなかった程冷静に、失言を取り繕うとする彼女を見つめていた。
 ふたりの不穏な気配を察したのか、膝の上にいた猫が面倒臭そうに逃げていく。
「へぇ、そんな風に思ってたんだ。まあ実際その通りなんですけど」
「あ、待って、違うの。最近会社で色々あって、先輩と付き合ってるヒモの人の愚痴聞いてたら、そういう話題が出てきただけで」
「どうせニートのこともディスってたんでしょ、その先輩と一緒になって」
「それは……」
 頬は赤いのに青ざめて見える彼女はただただ黙ってしまい、一松は徐々に冷静さを欠いていく。言葉に出してしまうと、どうしてこんなに拍車がかかるのか。語調まで強くなる。
「あ、図星? まあ六人もいて全員いい年こいてクソ童貞のニートじゃ、格好の話題にもなりますよね」
「…………、ん」
「は? なに? 聞こえないんだけど」
 完全に苛立った声音で聞き返した時、ぱっと顔を上げた名前ちゃんは口元を押さえながら、「ちょっとごめん」と早口に言って立ち上がった。そのままトイレへと駆け込んで行く。
 思わぬ動作と、顔を上げた彼女の目が泣いてるみたいに真っ赤になってたのが頭に残って、今度は一松の方が流石に言い過ぎたと青ざめた。
 追うべきなのか、行かない方がいいのか。
 一松が迷っている間に、飼い主を心配したらしい猫の方が先に彼女の後を追っていた。それにつられるようにして一松がトイレのある方を覗き込むように首を伸ばせば、ドアは開けっぱなしで、嘔吐く声が聞こえてくる。
 驚いて側まで行き中を覗けば、名前ちゃんが便器を抱えるようにべったりと座り込んで、辛そうに肩で息をしていた。
 その丸まった小さな背中を見るのは初めてじゃなくって、前は普通に会社から帰って来た時のことだ。酔ってもいなくて、普通にただ会社から帰って来た日のこと。きっともうこれは体の反射みたいに、いつの間にか癖になってしまったのだろう。
「……大丈夫?」
 でも今は自分が間違いなく原因だろうから、寄り添って背中をさすっても良いのかどうかも分からず、反応をうかがうように声をかける。
 まだ気持ち悪いのか、それとも僕の顔なんて見たくないのか、向こうをむいたまま名前ちゃんはうんと小さく応えた。
「ごめんね」変わらずに、背中は向けられたままの台詞。
「別に……」
 僕の方こそごめんねとは、素直に言葉に出せなかった。
「……同僚にまで目を付けられたくないからって、最低だよね。人のこと話題に出して、同調して、こんなの、言い訳にもならないけど」
 息を詰まらせるように言葉を途切らせた彼女は、更に背中を丸くして伏せるようにして、またごめんなさいと消え入りそうな声で謝った。
 うずくまって小さく肩を震わせて鼻をすする音をさせた彼女はどうやら泣き出してしまったようで、一松はひどく狼狽えながらも、ようやくその背中に手を伸ばした。せめてごめんねと素直に言えないこのへそ曲がりな口の代わりになるように。
 今の会社が辛い環境だってことも、彼女がお人好しで板挟みになってることも、本当は陰口なんて言わない子だったことも、ちゃんと全部知っていたことなのだ。悪いのは、八方美人な気のある彼女だけだなんてことはないよね、多分きっと。
「……ねぇ、辞めちゃえば? 仕事」
 胃を痛めてご飯もちょっとしか食べれなくなって、そのくせ眠れないからって胃に悪いの知りながらアルコール摂って、朝になったらまた嫌な会社に出勤して。そんな悪循環、今すぐ止めちゃえばいいのに。さっき自分で言ってたみたいに、いっそニートにでもなっちゃった方が楽になれるのに。
「いや、だめ」
「なんで」
 想像以上にあっさり否定されて、一松はちょっと面食らう。
 うつ伏せていた名前ちゃんが顔を横に向けて、涙に濡れた目元が覗いた。
「だってそうしたら、一松くんと会えなくなっちゃう」
 は?という声すら出なかった。頭の中が空っぽになって、さっきの名前ちゃんの言葉だけが耳の奥で繰り返される。
 会えなくなっちゃう。それってつまり、僕なんかに会いたいってこと?
 その言葉だけで頭がいっぱいになっていた一松には、彼女が続けて、「それに実家に帰ったら、あの子ともお別れになっちゃうし」と言いながらトイレの外をうろつく愛猫を見ていたことも、ほとんど頭に入っていなかった。聴こえていても、次の言葉にほぼ大差はなかっただろうけれど。
「……僕にそんなこと言っても、一文の得にもならないと思うけど」
「だってほら、一松くん良い人だから」
「は……?」
 今度はちゃんと声が出せた。意味が分からなさ過ぎて。
 だってそれって、名前ちゃんがまるで僕のことを……−−−−いやいや、あり得ないって。絶対にない。今更そんなこと、ないでしょ。
 だってちゃんと大学まで出て社会人してる名前ちゃんが身を削って働いている理由が、こんな根暗クズニートに会いたいなんて、悪い冗談だ。まだ酔いがしっかり回ってるに決まってる。僕はただ自分が猫が好きで、餌やりに来てただけ。好き好んで勝手に会いに来ていたのは、僕の方なのに。
「それなのに、ごめんね」
 いつの間にか振り返っていた彼女は、きちんと正座で対面していて、この狭い空間でもきちんと頭を下げていた。私は自分のことばかりで、一松くんのこと何にも考えてなくって、ごめんなさい。
 そんなことを彼女は照れもせず、一松の目をまっすぐに見て言う。
「何か私に出来ることないかな、今までのお礼とお詫びに」
 目を逸らして俯いて、一松は彼女の真面目な眼差しから逃れたかった。
 お礼やお詫びに何かをしてもらうどころか、言葉さえもかけてもらう資格は自分には無いのだと、一松は自覚していた。
 今まで彼女が自分に会社や友人の愚痴をこぼすように、自分も兄弟と幼馴染の話題になった時、彼女の悪口に同調したことがある。ちゃんと働いて必死に生きてる姿を知っているのに、でもそれってただ生活のために働いて何が楽しいのかと心の中で貶していたことだってある。働き口があるだけマシだろうと長い愚痴に嫌悪したりもした。それでもここに来たのは、ただ僕が寂しかっただけ。彼女はこんなにも素直に謝れるのに、僕は謝ることさえ出来ずにいるクズだ。だから彼女が謝ることもお礼をすることも一切必要ないのだから。
「……いらないでしょ、こんなクズにお礼とかお詫びとか」
 俯いたままぼそぼそと言葉を落とせば、名前ちゃんはそっかと、どこか寂しそうに笑ったようだった。
 本当は、もうずっと前から、互いに対する感情には気が付いていたのだ。子供騙しとは言え一時は親しい間柄と呼ばれる関係にもなりかけたこともあるのだから。けれど今更、時には好いて、時には嫌悪すらして、鬱血にも気付かないふりをしてきたようなこの関係が好転するには、もっと別の根本的な問題があるのは明白だった。ただの学生だった時とは、今はもう違っていて。
 思い出したかのようにザーザーと勢いよく流されてく水の音がした。
 立ち上がった彼女は隙間をすり抜けて先にトイレを出て行きながら、「じゃあ今度猫缶でも買って、公園にでも行こうかな。穴場、教えてくれると嬉しいんだけど」と、まるで何にもなかったかのように明るい声を出す。
 歯磨きをし始めた彼女が飲みやすいように胃薬と水をテーブルに出していた一松も、「いいよ。……一緒に行く?」なんて、しれっと返事をする。
 ようやく自分の寝床に落ち着くことが出来たらしい猫が、心底呆れたような大欠伸をしていた。
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