アダム・スミスが使った言葉。自己利益の追求が、意図せず社会一般の利益の促進につながることを説明するために用いられた。人が目指しているのは、自分自身の得だけである。自分自身の安全を獲得するため、確固として目指したわけではない目的を促進するように、言わば各人は 神の見えざる手によって導かれているのであるという考え。


ひとり静かに坐禅を組んでいた。
その、水滴一つ落ちないどこまでも続いてゆく水面に、小さな波が生じ始める。少しずつ大きな波を作って近づいてくる主(ぬし)を、江雪左文字はよく知っていた。毎回毎回、邪魔をされる形にはなるけれども、一度として、それを悪く思う事はなかった。

音を立てないようにと慎重に。極めて注意深く開かれた襖から侵入してきたその人は、足音にも気をつけてそろりそろりとゆっくり近づいてくる。その癖、最後の最後で全てを駄目にする。いつもの事だった。

「………ばあっ!」

背後からがばりと抱きついてきて、脇腹の辺りから顔を突き出してくるのは幼子……ではなく、成人した女人。私の白く長い髪の毛の隙間から覗くのは、満面の笑みを携えたーー私の審神者。

「今日は来ないかと思っていました」
「どうして?」
「薬研が、貴女がすぐに逃げ出すから書類が溜まって仕方がない、と」
「げっ…まあ、その通り」

私の腰に抱きついて寝転んでいる彼女は、きっとすぐには戻らない。膝に乗った小さな頭も「でも残念。もうお休みモードです」と詫びる様子もなく言って退けた。

「…さっきね、政府から報せがあったの。新しい敵の存在が確認されたんだって」

元気だけが取り柄の、底抜けに明るい人。絶えず明るい分、影は一層陰って見えた。
まるで、見ているこちらまで侵食されるような。

「戦って直して、戦って直して、倒しても倒しても新しい敵が出現してきて…そんな、いつまで…」
「…戦いが終わる日は、果たして来るのでしょうか?」
「うん。そんな夢みたいな日は、本当は来ないのかもしれないよね。だからかな。たまに、私も何の為に戦っているのかわからなくなる…………ん、だ、け、ど!あなたたちが居るでしょう?」

迷った時にはこうして、守りたいものを確かめられる。君たちが実体化してくれて私は大変助かります、と彼女の強張っていた表情が端からほぐれてゆくのが見て取れた。
関係ないだろうに、自分の内側もじんわりと温まるのは一体何故なのだろうか。随分長い間存在してきた筈なのに、人の身を得てからというもの、知らなかった事ばかりが起こって困る。

「私は君たちを守れればそれでいーの」
「…良いのですか?もっと、大きな御役目があるのでは?」
「いいよ。私はヒーローじゃないし世界規模は無理。私は、私の世界を守れれば十分過ぎるなぁ」

曰く、なるようになる。そういうふうに出来ている。きっと「私の世界」の平和は、どこかしらで「世界」の平和に繋がっている。私たちは全体を構成する、立派な一部なのだから。
彼女らしくて良い言葉だと思う。弟がこの場に居れば「言いますね。貴女まだ半世紀も生きてないでしょうに」と呆れただろうけれども。

「だから、最期まで一緒にいてね」

眩しいくらいの強い光。
貴女が望まずとも、こんなにも離れ難い。


「そうですね…『主命とあらば』」
「あっはは、ふふっ!ねえ、今の長谷部の真似でしょう?」
35点!とけたけた笑う彼女には、やはり笑った顔が何より似合う。
自分とはまるで正反対の彼女の事が、何故だろう、自らの主としてたまらなく誇らしく、そして好ましく思えた。

ーー君たちを守れればそれでいーの。

「(元々争い事は嫌いだけれど…)」

私もだ。
私も、貴女を守れればそれでいい。
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