ゲーム理論で用いられる用語。A・W・タッカーによって定式化された。「合理的な決定が、自分にとって最善の結果をもたらすとはかぎらない」という説。


彼の指先がそっと私の頬を撫でた。
言葉を失ったお陰でゲーム音だけが支配する縢くんの部屋。カウンター越しに行われた、まるで愛しむようなその行為。どれも縢くんには似合わないと感じた。


「あの、さ」


背けていた彼に恐る恐る焦点を当てる。苦々しそうに寄せられた眉根と、重々しい声音がやけに現実染みていた。


「執行官になったから、名前ちゃんと会えたんだね」


慎重に、間違わないように、縢くんは言葉を綴る。普段は調子良くさらりと言葉を続けるのに。監視官である私に対しての最大限の配慮だということが容易に分かった。
そして同時に「好きだ」とも「愛してる」とも言ってくれない縢くんに、潜在犯との距離を在り在りと感じてしまう。


「縢くん」
「ん?」
「…縢くんのこと、嫌いじゃないよ」


それは私も同じで、微かに目を細めた彼へ、彼が求めているであろう言葉を掛けてやれない。こんな言葉であなたは満足なのだろうか。


「名前ちゃんは優しいね」


こんな言葉が、優しさだとあなたは言うのか。
縢くんの瞳の中に私が居て、私の瞳の中には縢くんが居る。居たたまれなくなって視線を外せば、彼は先程食べ終えて空になったお皿を洗い始めた。いつもならそんなの後回しにする癖に。今回も核心には触れずに話が終わる。終わってしまう。


「ねぇ」
「んー?」


このままじゃ、想いが募って仕方無いの。


「好きよ」


口にすれば曖昧な感情が確信へ変わってしまうと考えていた。実際にそうだ。溢れんばかりの想いが心臓を浸す。でもだって、鎖に繋がれている彼を私が置き去りにしているはずなのに、なんだか置いて行かれる気がしたのだ。どうしても気に食わない。
ガチャガチャと響き渡っていた生活音は、水道水がシンクを叩き付けている音に変わる。それから当たり前のようにゲーム音。


「お…れのこと好きになっても仕方ないでしょうが」
「知ってた癖に」
「いやまぁ、そうなんだけどさ…」


しばらくして話始めた縢くんは、その後濡れた手をそのままに「ああ、もー!」と顔を覆う。隠しきれていない耳だけは真っ赤に染まっていた。


「…だって」
「"だって"じゃない」


指の隙間から視線が重なり、そして咎められる。私の唇も尖る。
潜在犯との恋愛等たかが知れていた。そんな恋愛に振り回され、薔薇色な人生を棒にしたと周囲からは罵倒されるのだろうか。隔離施設に入ってしまえば届きもしない罵倒なのだろうか。そもそも潜在犯になった時点で意味の成さないストレスなのだろうか。


「はぁ…もういいや。逃げよーぜ?名前ちゃん」
「え!こ、殺されちゃうよ」
「どうせ犯罪係数やばいんでしょ?」
「うう…」

状況判断とその対応能力が高い縢くんは、切り替えた様に策を提案する。彼にとっての最善の策は、不可能に近い逃亡ということだ。
彼の言う通り、崇拝してきた完全無欠のシビュラシステムをもう信じることが出来なかった。槙島聖護の起こした事件により、日に日に明確化されて行く。朱ちゃんみたいにシビュラを絶対的存在と考えることがどうしても難しい。犯罪係数も上昇して行く一方で、潜在犯落ちは時間の問題だった。


「名前ちゃんとなら死んでもいい」
「死んだら、意味無いよ」


簡単に"死"という言葉を放った。潜在犯と潜在犯予備軍の違いなのだろうか。彼とは裏腹に何かを失った焦燥感と、宝物を手に入れた高揚感が交差した。
また正面に立った縢くんは心底幸せそうに唇を合わせる。私は堕ちるように瞼を降ろした。



結局、


逃亡することはなく、縢くんと執行官として刑事の仕事を務める道を選んだ。理由は何とも不純だが、潜在犯になり当然のように執行官の適正判定が出る。


「縢くんの代わりとして、一係に配属が決まりました」


面会室で朱ちゃんが悔しそうに言った。
順調だった。というより、選択は間違えてなかった筈だ。


「……は…っ、」


僅かに開いた自分の口から本能が酸素を飲み込ませ、頭はその動作に合わせて振動する。
ああ、また置いてきぼりにされた。約束したじゃない。瞼を閉じることのできない瞳から涙が流れる。流れ続ける。「…縢くんは、殉職しました」朱ちゃんの目が嘘だと云った。潜在犯の直感なのだろうか。

――好きだよ。

あなたの甘い声が、溶けるような思い出が、脳内を駆ける。探しても探しても足りなかった。
詰まるところ、ふたりで決めた運命の末路、"生"という利益を得たのは私だけだった。
そして、自分たちの考えには確実性が欠如していた。逃亡しなければ、殉職しなければ、執行官として生きて行けると思っていた。


「シビュラに殺されたんでしょ」


冷たい、冷たい声が響く。真っ白な室内にも、空っぽの頭にも。
朱ちゃんが息を呑む。透明な壁を隔てた先にいる存在が、急いで否定している様を、見物客として観ていた気分だった。

愛してるよ、名前ちゃん。

シビュラの犬としてシビュラに生かされている彼に、そんな末路はないと決め付けた愚かな潜在犯。募り続ける想いと一緒に残ったのは、哀しい程にたったそれだけ。
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