いつもと同じ私の家の、私の部屋の、私のベッド。部屋の内装も窓から見える景色も何ひとつ変わらないけれど、ただ、いつもはここにいない人がそこにいるだけで、どうしてこんなにも違って見えるんだろう。
酒がまわった頭でぼんやりとそんなことを考えていると、私をベッドに押し倒した張本人がするりと頬を撫でてきた。
火照った頬を滑る冷たい手に、ぽやぽやしていた思考が徐々に覚醒していく。
微笑を浮かべながら私を見下ろす彼女が、ふと耳元に口を寄せた。酒のせいか、それともこの不思議で少しいやらしい雰囲気のせいか、やけに身体が敏感になっている気がする。
肩を揺らす私にくすりと笑って、彼女は吐息混じりに囁いた。

「好きだよ」

目を合わせて、手を重ねて、そしてゆっくりと、触れるだけの口づけが落とされる。
至近距離で震える彼女の長い睫毛を見つめながら私は、どうしてこうなったんだっけ、と頭をはたらかせた。


高い給料に目がくらみ、大した信念もないまま公安のデビルハンターになった私は、すぐにその凄惨な職場に嫌気がさした。
仕事は常に死と隣り合わせで、血を流したり血を浴びたりは日常茶飯事。死んでいく同僚を何人も何人も見送って、人ってこんなに簡単に、呆気なく死ぬんだな、なんて他人事みたいに思ったのは、入社して数日の頃だった。
次に死ぬのは私なんじゃないのか。自分はいつ、どんな惨たらしい死に方をするのだろうか。
そんなふうに考えては、思考をかき消すように、不安を誤魔化すように、必死に悪魔や魔人を討伐してきた。
すごく怖かった。痛いのは嫌だ。死ぬのは嫌だ。
それ以上に、目の前で人が死ぬことが、とんでもなく嫌だった。
もう、無理だ。
面倒を見てくれていた姫野先輩や切磋琢磨してきた早川くんには悪い気もするけれど、臆病な私はついにデビルハンターを辞めることを決意した。
どうしてか震える手でなんとか辞表を用意し、それを提出すべくいつもより早く家を出る。
血のにおいが染みついたスーツとも、手に馴染んでしまった武器とも、もうおさらばだ。
半分清々しい気持ちで、半分後ろめたい気持ちで廊下を進む。右手に持つ封筒の感触を確かめるように指にぎゅっと力を入れた。
これで、終わるんだ。公安を辞めたら、再就職先が見つかるまで適当にどこかでバイトして稼いで、休日はのんびり趣味に励んだりして──
そんなことを考えながら廊下の角を曲がったとき、同じように角を曲がってきた人と正面からぶつかってしまった。
私もその人もゆっくり歩いていたから大した衝撃はなかったが、驚いた私の右手から、するりと辞表が滑り落ちる。
はたりと床に着地したそれを拾いあげようと慌てて屈んだが、私のものではない長く綺麗な指が、ひどく落ち着いた動作でその封筒を掴んだ。
視線を上げた先には、「辞表」と書かれた封筒を見つめるマキマさんがいて、思わずぎょっとしてしまう。

「まっ、マキマさん!? すみませんご無礼を……!」

思いっきりぶつかった上に物を拾わせてしまった。あまりの申し訳なさに血の気が引くのを感じながらがばりと頭を下げる。

「名前ちゃん、辞めるの?」
「へ、」
「公安、辞めちゃうんだ」

真意の読めない不思議な瞳に見つめられ、言葉につまる。でも、別に嘘をつく必要はないから、私は無言で頷いた。

「そう……」

どこか残念そうな、不服そうな声音で呟いたマキマさんの手元には、私の書いた辞表。
じっと目を見つめられて、気まずいやら恥ずかしいやらで逃げるように目線を泳がせた。
辞めるなんて根性のないやつだ、なんて思われているんだろうか。まさにその通りなので何も反論できない。そもそも、彼女と口論をする度胸なんて持ち合わせていないけれど。
マキマさんは白い封筒に視線を落として、私の汚い字で書かれた「辞表」という言葉を指でなぞる。
ハラハラドキドキしながらその様子を眺めていると、パッと顔を上げたマキマさんがいつもの笑顔を浮かべて私の手を取った。

「名前ちゃん、今日一緒に飲みに行こっか」
「エッ」

なんの脈絡もないそのお誘いに、我ながら気持ち悪い声が転がりでる。
マキマさんの綺麗な顔と、彼女に優しく握られている自分の右手を交互に見て、辞表の入った封筒が姿を消していることに気がついた。
私の手を取る直前に懐にしまったのだろうか。突然すぎる飲みへの誘いも相俟って、マキマさんの意図がよく読めない。

「もしかして、何か予定あった?」

沈黙している私の顔を見つめて、マキマさんが軽く首を傾げた。焦った私は思考もまとまらないままに慌てて口を開く。

「いえ、予定はないです、暇です」
「なら、決まりだね。お店は私が予約しておくよ。19時に駅前で集合しよう」

最後ににっこり笑ってから、マキマさんは颯爽と歩いていった。
未だに困惑している私の脳内には疑問符ばかりが浮かんで、ただ、彼女が触れていた右手だけがやけに熱かった。


居酒屋に入ってからは、若干の緊張を覚えながらも、マキマさんがオススメしてくれるままに酒を飲み、料理を食べ、酒を飲み、そして酒を飲んだ。
何杯目かもわからないジョッキを飲み干す。熱に浮かされるようにアルコールがまわって、気持ちがよかった。
その頃には、マキマさんに没収された辞表のことなんて頭から消えていて、ただひたすら仕事についての弱音を吐いていた気がする。戦うのは怖いだとか、痛いのは嫌だとか、もう血のにおいはうんざりだとか。
食事の場だったのであまり過激な話はしなかったが、気づけば普段人に言わないような愚痴までも口走っていた。あ、やばいな、と一瞬だけ思ったけれど、それでも酒のせいで軽くなった口はまわり続ける。
ふと、向かいの席で微笑みながら話を聞いてくれるマキマさんと目が合って、ダメな大人の見本みたいな情けない姿を晒している自分が恥ずかしくなった。少しでも酔いを覚まそうと思い、1人で席を立つ。
化粧室で顔を洗ってからテーブルに戻ると、かき氷のブルーハワイみたいな青色のお酒が置いてあった。
綺麗な色だ。宝石を溶かしてカクテルにしました、と言われても信じてしまいそうだった。
ラストオーダーらしいから勝手に頼んじゃった、とマキマさんが言って、もうそんな時間なのかと驚く。なんだか私ばかりが飲んで、私ばかりが喋っていたような。
申し訳ない気持ちを隠すように青色のお酒を口に含んで、そして……、あれ。

「なにを考えてるの?」

必死に記憶を手繰り寄せている私を咎めるような言葉が聞こえた。けれど私の唇を指でなぞる彼女はとても優しい表情をしていて、バグでも起こったみたいに思考がフリーズする。

「マキマさんのこと、考えてました」

心臓の音が爆音で響いて、自分の声さえも聞き取りづらい気がした。
それなのに、ふっと笑みをこぼす彼女の吐息は恥ずかしくなるほどよく聞こえて、もう何がなんだかわからない。
青くて美しいなにかを飲んでから、マキマさんに押し倒されている現在までの記憶が飛んでいる。それはたぶん、というか確実にマキマさんの仕業、だと思う。
でも、目的はなんだろう。
マキマさんには、公安に入ったときから何かとお世話になることが多かった。優しくて強くてその上美人な彼女のことを慕わない理由なんてなかったけど、それはもちろん頼りになる上司として、であって、恋愛感情なんてない。
だってマキマさんと私は女同士だ。恋愛感情、なんて、あるわけがない。

「どうして、」
「うん?」
「どうして、こんなこと」

何もかも意味がわからなくて、緊張のせいかそれとも恐怖のせいか、声が震えた。
マキマさんの目が、見られない。自分に降りかかる視線を知らないフリして、ひたすら彼女の首もとを凝視する。
覆いかぶさるようにして私の腰に跨っているマキマさんが、何かを考えるように首を傾げる。うーん、と少し困ったように唸って、次の瞬間、彼女との距離がゼロになった。
キスをされているとすぐに理解できたのは、ついさっきも同じことをされたからだ。
リップ音もたてずにゆっくりと唇が離れて、マキマさんの手が私の頬に触れる。

「たりないの」

すっかり酔いの覚めた頭でも、彼女の言葉の意味がわからなかった。
気づけば、私とマキマさんの視線が交わっていて、体がぎしりと硬直する。目の前の笑みがどんどん無機質なものになっていく。
それは怒っているようにも、悲しんでいるようにも、楽しんでいるようにも見える、すごく、すごく不思議な表情だった。

「キミは、早川君と仲がいいんだね」
「え……?」
「デンジ君とよく一緒にいるのを見かけるし、パワーちゃんとも打ち解けてきた」
「……」
「この前はビームと楽しそうに話していたし、……随分と友だちが多いんだね?」

マキマさんの瞳から目を逸らせない。それどころか口を開くことすらかなわなくて、彼女と見つめ合ったまま、身体が凍りついたんじゃないかと錯覚するほど、指一本動かすことができなかった。
頬に触れていた手が、私の耳元を撫でる。
マキマさんがゆっくりとそこに口を近づけて、息を吹き込むように囁いた。

「どうしてこんなことするのか、って?」

さっき私が尋ねたことだ。耳元に口を寄せる彼女の表情は見えないけど、その声音はとても楽しそうだった。

「掴まえておかないと、キミが離れていっちゃうから」

そう言って、マキマさんは私の手に指をからめる。恋人繋ぎのようにぎゅっと力を込められて、反射的に握り返してしまった。
それをきっかけにして、まるで金縛りがとけたみたいに身体が動くようになったけれど、彼女を拒絶するようなことなんてできなくて、せめて精いっぱいの抵抗として、マキマさんがいるのと逆の方に顔を向ける。
くすり、と耳元で彼女が笑う気配がした。
思わず身じろぎすると、マキマさんが身を起こし、相変わらず何を考えているのかわからない不思議な目で、繋がれた2人の手を見つめる。
緩やかに、しかし確かに心拍数が上がっていくのを感じながら彼女の美しい笑顔を見ていると、やがてその視線が、困惑してばかりの私の目を捕えた。

「でもキミは、掴まえておくだけではたりないみたいだね」
「え、っ」

マキマさんは、繋がれていない方の手を私の腰に這わせた。艶めかしい動きでゆっくりとその手が下へ下へと進んでいく。
脚のつけ根に差し掛かったところで、マキマさんの美しい指がとんとん、と私の太腿をつついた。
くすぐったくて、恥ずかしくて、訳もわからず身をよじる。
酔いはとっくに覚めているはずなのに、身体が火照って仕方がなかった。

「脚をね、」
「あし……?」
「──脚を切り落としたら、キミは私から離れないでいてくれる?」

いきなり冷水をぶっかけられたのかと思った。急速に頭が冷たくなるのを感じる。ちがう、これ、血の気が引いてるんだ。
しっかりと視線を交わらせたまま、マキマさんがその両目を眇める。ぞっと冷たいものが背すじを這い上がって、息をのんだ。

「それとも、両目を潰した方がいい?」
「ひっ、」

脚に触れていたマキマさんの手が、いつの間にか私の目を塞いでいる。
真っ暗で、何も見えなくて、ただ自分の心臓の音と、無機質なマキマさんの声だけが頭のなかを支配していた。

「キミを求めるのも、キミに求められるのも、私だけでいい」

依然として重ねられている手に力が込められる。
逃がさない、離さない。そう言われているような気がした。

「ほかの誰も見ないで。ほかの誰も頼らないで。ほかの誰にも触らせないで」

目元を覆っていたマキマさんの手が離れていく気配がして、恐る恐る目を開ける。
いつも通りの笑顔を浮かべて私を見つめる彼女が、弧を描いた形のいい唇をゆっくりと開き、そして、愛おしそうに私の髪を撫でた。

「好きだよ。だから、」

そのあとの言葉の代わりとでも言うように、口づけが降ってくる。
マキマさんを拒絶できない私も、そもそも拒絶させる気がない彼女も、どこか歪んでいる。
ひたすらに注がれるこの歪な感情を愛というなら、きっと私はもう彼女から逃げることはできない。
おそろしいと思ってしまったから。まるで悪魔と対峙したときみたいに、恐怖を覚えてしまったから。
もし愛の悪魔なんてものがいたら、きっととんでもなく強いんだろう。
だって、こんなにも、こわい。

「だから、ずっとそばにいてね」

消え入りそうな声でそう囁く彼女は、魔性の魅力で人を誑かす悪女のようでもあり、初めて愛を知った無垢な子どものようでもあった。
じっと私を見つめる彼女の瞳から視線を逸らすことができない。蜘蛛の巣に捕らえられた蝶にでもなった気分だった。
私の言葉を待っているのか、マキマさんは微笑みを浮かべたまま動かない。
喋ってしまえば、捕食される。口を開いてはダメだ、って、わかっているのに。

──愛しているといいなさい。

そう、誰かに言われた気がした。
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -