注意 : 架空世界設定


彗星の如く現れたその女が、日本だけに収まるはずがなかった。
あっという間に全世界へと名を轟かせた女、名字名前は、ただそこに佇むだけで、他を圧倒する独特の存在感を放つ。一度微笑めば神ですら魅了するだろうと謳われ、一粒涙を零せば悪魔ですら膝をつかせると囁かれた。例え顔を隠したとしても、その圧倒的オーラは薄れることはない。まるで女神の如く名前は君臨した。

そんな彼女の最大の武器は、他に類を見ないうつくしさであった。
月の女王と名のついた美貌は、冷たくもあたたかく姿を変える。モデルとしても女優としても幅広く活躍する彼女は、役を選ばない。月のように姿を変え、どのような役であっても見事に演じ抜くのだ。

いくつもの顔を持つ名前には、とっておきの顔があった。一番のお気に入りといっても過言ではない、甘美でいて、残虐な、その顔を被り、名前はその日とある街を歩いていた。

輝かしい赤色の絨毯を踏み締めるその足が、罅割れたアスファルトを叩く。目元を覆うシンプルな仮面と、薄い黒のベールが名前を隠していた。

足元まで伸びたベールが、吹き荒れる風にふわりふわりと靡く。ひどく荒れた街であった。まるで人間が消えた後の世界をそのまま表しているかのような、崩壊と退廃が入り混じる街は、伽藍洞で生きるものの気配はしなかった。

「……いつか、この場所に花は咲くのかしら」

薄紅の唇から溜息交じりに零された言葉は、誰もいなくなった街に消えていく。
暫く歩いていた彼女は、朽ちたビルの立ち並ぶ一角で足を止めると、服が汚れるのも厭わずにしゃがみ込んだ。

「ああ、あなたもダメだったの」

ワインレッドに塗られた爪先が、それに触れた。そうして頬であった場所を撫でると、その胸に抱き締める。

「ねえ、愛していたわ。私の青い薔薇」

情熱的な言葉は冷たい声音で凍てつき、ただ吐き捨てられる。額であった場所に薄紅が落ちたかと思うと、からりとそれは地面に転がった。

「名前」

「……しぶとい花(ひと)ね」

「いい加減諦めたらどうです?
ここに咲く花は紫の月来香だけで良いとね。月に魅了され、月に花開く、世界に1つだけの花を、貴女に捧げますから」

「いやよ。私は、青も水色も黄色もすべての花が好きなの。この街を彩り、蘇らせるために。そして、私が愛でるために」

囁くような低い声が、不意に名前の後ろから発せられたが、名前は振り返らない。重なる影にただ視線を落とすのみであった。

「それに、もはや貴方は花ではないわ。花を食い荒らす害虫よ」

「おや、ひどいヒト。俺をここに連れてきたのは名前でしょう?」

「……。ええ、そうね。とても後悔しているわ。ただのきれいな花だと思ったのに。まるで蜘蛛ね、貴方」

「ふふ」

ばきん、と硬い何かが割れる音がした。名前の視界の端で、黒光りする爪先が映る。黒の皮の靴の下に、先ほど名前が抱きかかえていたそれが砕け散っていた。

「そのような虫がいると知っても、花を此処に送り込むの?」

「ウツボカズラがいるかもしれないでしょう」

「ふふ、食虫植物ですか。面白い。だが所詮は植物だ」

くつくつと低く笑うその音が、とても近くで聞こえた。振り向く間もなく名前の頭の両側を、褐色の腕が貫く。ビルの壁とそれとの間に挟まれた名前の表情は、仮面に隠れてわからない。

「新しいデザインを思いつきました。この服よりもさらに名前に相応しいものばかりですよ」

「……貴方のそのセンスは買っているわ」

「光栄です、俺のお月様」

身長差を埋めるように背中を丸めて名前の顔を覗き込むこの男は、この街の最初の住人であり、最初に花開いた存在でもあった。しかしながら、如何せん気性が荒過ぎたのだと名前は後悔する。あろうことか、この街のためにと連れてきた“花”を、すべて枯らせてしまったのだ。そうして、次々と街には花の残骸が積み上がっていった。

「ああ、また花を植えなければ。今度はどんな花が良いかしら」

殺風景の街に、名前はただ憂うだけ。
そんな女を見て、男はただ笑うだけ。
天上の月はどこまでも無慈悲で、それに焦がれる蜘蛛もまた残酷なのだ。

「そういえば、最近良い花が入ってきたの。瑞々しくってとてもきれいな花よ。まだ若くていきいきとしてて。きっとあの子なら此処でも育ってくれるわ」

からりと表情を変えた名前は、まるで少女のような可憐さを滲ませていた。笑みを口元に湛え、きらきらとした瞳が仮面越しでも伝わる。
魔女を思わせる仄暗いうつくしさから、向日葵のような溌剌とした明るさに切り替わる瞬間は、同一人物とは思えないほどのギャップがあった。
男はただ笑みを深くして、無邪気な女の目元を飾る仮面へと手を伸ばす。

「だめ」

「此処には名前と俺しかいないのに?」

「約束した筈よ。私の願いのために協力してくれるって。そして、その願いが叶ったら貴方の望みを叶えるわ。仮面(これ)もそうよ」

「ええ、良く心得ています」

「嘘。だって、邪魔しかしてないじゃない」

「それは貴女のためですよ、名前。枯れかけた花は貴女に似合わない。だから俺が剪定して差し上げているのですよ」

「ふうん、まあいいわ。花はきれいな方が良いものね」

「おわかりいただけたようで、何よりですよ」

「いつか、この街で育った花で花束をつくりたいわ」

「それは骨が折れそうだ」

「ふふふ、楽しみよ」

ほんのりと赤らんだ頬は、無邪気さの表れだ。鈴の音を揺らすように笑う名前を男はじいと見つめて、いとおしげに瞳を緩める。そんな2人を夜の帳が包もうとしていた。





「……ああそういえば、新人のマネージャーが来るとか言っていましたねえ。さて、どう喰らって差し上げましょうか」
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