うらさみし。
  うらわびし。
  槌のこゑ。


     裏山に咲く一輪の野百合に捧ぐ

 きみはいつも一冊の詩集を懐にかかえて、きみの終生の持物といえばそれきりだった。俺たちは、ついぞきみのものにすらなれなかったな。
 夜明けとともに城の大手門をくぐって無人の城下を下ったきり、歩数を数えるのはやめちまった。
 なあ、きみ。風に潮がまじってきたぜ。
 俺の肌はこころなしかぺたぺたするようになってきた。

「猫が鳴いている」
 ここ数日きみの口癖はこうだった。仕事のさなかに。就寝の前のあいさつに。あるいは縁を渡りしな。思いだしたように動きを止め、つかのま、やがて顔を持ちあげ宙を眺めた。
 いちずな横顔だと思った。
 呼びかければ大した未練もなくこちらを振りむき、なにごともなかったかの態度で作業を再開する。
 だが俺は、たしかにうす気味悪いものを感じていたのだ。不快と置き換えてもいい。そいつは見えない影だった。聞えない足音だった。
「鶴丸。猫の鳴きごえがします」
 ときみは、一昨晩も言ったな。
 縁先へ腰かけ、まだ霞の漂うような夜気にその薄いからだをひたらせて。
 俺は隣りで、ちょうど耳へ入った水を追いだすように頭を倒し、眉をひそめた。
「聞えないが」
「そうですか」
 きみは首を曲げて月の光に俺を照らすとただうなずいた。
 なあ。本当のところ、予感はあったのかい。腕のなかへ訊ねても、いまさら答えは返っちゃこないが。
 例えば、肉親を早くに亡くし、それまで他人同然であった盲いた祖父のもとへ一人きり預けられるのと、遠く異国の地でゆっくりと精神を損なっていく生活の、きみ、どちらが孤独だと思う。
 そしてきみにとってここでの暮しは、そのどちらにより近しいものだったのか。

 いま、俺は海風になぶられている。
 さざなみは女の嬌声で、海は透明にその身をくねらせている。
 砂粒は、思いのほか足を取り、てんでまっ直ぐに歩けやしないのだ。それでざんぐりとした足跡が、酔狂人か、夢遊病者のように転がっている。
 俺は一度も振りかえらず、その上どこまでも行けそうだと考えた。同時に終着地を知っていた。はなからこれが行き場のない逃避でしかないことを。
 きみが死んだのは昨日の朝だった。
 起こしに訪うた居室で近侍が発見したものは、布団のなかで冷たくなったきみの亡骸である。それは全然寝姿と変りなく、仰向けに腹で指を組むきみは、おそらくあと数分もすれば深い睫毛を震わせて黒曜の瞳を俺たちに見せるものと思われた。しかし管狐から聞きつけた政府の連中は、さっさときみを運びだし、爾来帰されたのは小さな箱に収まったきみである。
 そして政府の役人によればきみに故郷と呼べる地がもはやどこにも無いと知ったとき、俺は、きみの二一グラムと共にきみの存在ごと永久に失われてしまったように感じたのだった。
 俺はとうとう砂浜に腰を落とした。
 抱えていた骨箱をおろし、箱を蓋した結い紐の、華鬘に象られた飾りをほどいては結びなおす。
 風がはたはたと俺の白装束を打っている。
「すっかり扱いやすくなっちまったな、主」
 生前きみは曼荼羅に描かれた参詣人だった。あるいは、極光を浴びる罪人だった。
 その細腕に俺たちを握った日から、きみの生涯は、罪を犯さぬわけにはいかない人生となった。それで、恨むなというほうが無法な話かもしれない。
 俺は最後にもう一度華鬘を解き、覆いをまさぐり、箱をあけた。安座する壺を取りだし、膝へ抱えた。手のひらにかかる負荷のあっけなさにこんなものかと思う。そいつは恐らくきみの肌とまったく同等にすべすべしていたが、張りつくような弾力も、温もりもなかった。ただ陶器の冷たさだった。
 壺のなかから焼骨をひとつ拾いあげる。海面を弾く白っぽい陽射しに透かして、これはぜんたいどこを支えていたものだろうかと思ったが、きっと小指だろうと信じた。
 そして俺は、そっくりと唇へ含み歯を立てる。


/白くいられない
タイトル:ユリ柩さま
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