流れる声は小川のようであった。せせらぎが耳朶を打ち、消えては浮かぶ声の弾みに聴覚がまろぶ。シティの外れに構えるバーは所狭しと人が寄せ合っているものの、姦しい音はどこからも上がらなかった。集まるのがサテライトの出身ばかりとあれば仕方ないのかもしれない。カウンターに乗せ手持ち無沙汰を慰めるガラスコップに意識が戻る。照明の淡いオレンジに濡れたコップには自分の顔が歪に映っており、中のブランデーによって掻き消えた。

「こんなべっぴんさんも頭を抱えることがあるんだね」

胴声が頭上から落ちてきて、緩慢に頭を持ち上げる。両手を優に超える銘柄が立ち並ぶ棚を背に、初老の男性バーテンダーは表情を曇らせる。しんみりと気落ちした雰囲気を飲むと胸中も重たくなった気がした。酒に映る自分に溜息をまた落とす。それは酒の匂いに溶かされた。

「話聞こうかい」

「いいえ、大丈夫」

キャラメルのような液体に波紋が広がった。喉を通すとひりひりした感覚が喉を焦がし、刺激のある味が舌の上に付着した。ほんとはカクテルといったフルーティなものしか飲めず、こういう味の強い酒は好みじゃない。それが明瞭に顔に出てしまったようで、バーテンダーは「口直しにカクテル飲むかい」と苦く笑いながらアラスカを出てきた。アルコールに混じってレモンの匂いに気づき、私はありがたく受け取った。それはブランデーと比べてとても飲みやすかった。かなり割ってくれたのか、本来のそれより幾分も喉を通る。ほうっと口を離した時、隣の椅子が回った。

「ひとりで寂しく飲むなんて可哀想によ、俺が付き合ってやるよ」

わざわざ顔を向けるまでもなく、悪酔いした男に絡まれたのだと察知する。こういう手合いに付き合っていては時間と神経を浪費する。無視が一番だと解っている自分は、顔を向けるでもなく、バーテンダーにもう一杯と注文した。おいだの、聞いてんのかだの、聞けよだの喚いているが、無視。全部無視。どこぞから沸いた微かな嗤笑にすら気づかない男は、尚も喚いている。

「ちょっと下手に出てやったら図に乗りやがって……。聞いてんのかてめえ!」

膨れ上がった怒りが爆発したのだと肌で感じ、退けようと立ち上がる寸前。男が振り上げた腕は、視界の外から割り込んだ誰かの腕によって阻止された。幹のように太いそれを視線で手繰っていけば、ひとりの男に繋がっていた。想像だにしていない人物に男も私も息を飲む。空気はいつしか止んでいた。

「貴様こそ誰に絡んでいるのか、解っているのか」

照明の暗い店内でもその輝きは損なわれない。鈍いながらも綺麗な光を放つ金色の髪。苛烈を極める紫水晶の双眸。すっとなだらかに流れる鼻梁と、男にしてはきめ細かい白い肌。耳朶を貫く、その低い声。絡んできた男は悔しさ交じりに去っていったというのに、根を生やした脚は動けなかった。瞬きも忘れて痛む目にその姿を焼き付ける。瞳が紫に染まる。息が喉に詰まりそうになった。離れていく匂いにも覚えがあった。

「……待たせた」

テノールのように低い声が心臓を掴む。待たせた、待たせたですって? 動けなかった思考は瞬く間に稼働し、身体の横に縫われた手が空を切る。乾いた音が店内に行き渡り、堪らなくなった私は唇を噛み締めた。目の前の彼はうんともすんとも言わないままで、眉ひとつ吊り上がらない。余計に掻き立てられ、財布から大枚を掴んで机に叩きつけ、店を飛び出した。

外は未だ雨が降っていた。アスファルトを叩きつけるがごとく降りしきる雨粒は激しい轟音を立て、視界をうっすら白ませる。どこまでも冷えた空気に鼻の奥が刺激され思わずくしゃみする。店から随分歩いてからおのれの身なりに気づいた。まさに濡れ鼠となった自分に嫌気がさし、同時に激流が喉を責めた。滴らせる髪が頬に睫毛と絡み合い、視界を遮った。どこへ行こう。どこか行こう。どこに行けばいいの? どうやって? 帰る場所なんてないのに。おのれの足元に幾粒もの雫が落ちる。道のへこんだところに立っているせいで雨が溜まり、靴はもはやその機能を果たしていなかった。濡れてしまったなら変わりないし、いっそ靴を脱ぎ捨ててしまおうか。自棄が過ぎるが、それは一瞬のうちに霧散した。

「どこへ行くつもりだ!」

腕になにか固いものが巻きついたかと思うと、それは勢いをつけて私の身体を反転させた。回った視線の先に佇む先程の彼。私に倣って飛び出したのか、同じように濡れ鼠となっていた。張り付く髪を疎ましく掻き上げ、鋭い眼光が私を見下ろす。空になった器から瞬く間に溢れてしまった怒りが、自分の口を開けた。

「……どこへ? あなたにそんなこと言う必要があるの? じゃあ私が聞かせてもらうわ。私を置いてどこに行っていたの? ……言わなくていいわ。ええ、解りますとも。すべてを踏み台にして見下ろすシティはさぞかし綺麗でしょうね。それほど綺麗なら見てればいいわ、なにもかも忘れてね!」

去ろうと腕に力を入れたが、それよりも強い力に往なされその場に繋ぎ止められてしまう。

「離して……!」

「何故そうも頑迷なんだお前は! 話を聞くことができんのか……!」

「話なら聞いたわよ、遊星とクロウから全部! そんなに自分の夢を追いかけたいなら追えばいいわ、そうすればいいのよ。もう構わないでちょうだい!」

「お前が聞くべきなのは俺の話だろう……!」

「あなたがそれを言うの!?」

紫の双眸が一瞬怯んだ。抑えていた感情が一気に膨れ上がる。

「話しもせず消えたのはあなたでしょう……! なにも言わず、なにも相談しないで。あなたがシティへ行ったと遊星たちから聞かされた恋人の気持ちを、あなたに理解できて!? なにも知らなかったのかと彼らにびっくりされた私の気持ちを理解できるの? あなたは!」

叫ぶほどあちらこちらが痛くなり、泣きそうになる。腕を掴む手は気づけば下ろされていた。

「出て行く時、あなたに私と話す気はあったの? きっとなかったでしょうね。いつだってあなたは私と向き合ってくれなかった。……それでも好きだったのは、好きでいられたのは、あなたが私をひとりにしなかったからよ!」

目に浮かぶあの退廃した世界。吐き出されたものたちで造られた監獄。毎日が地獄だった。誰もが等しく無価値で無意味な存在だと烙印を押され、そこで産まれる無垢な命さえ汚していく。毎日が嫌で嫌で堪らなかった。それでも生きてこれたのは、隣に彼が居たからだ。口数少ない彼は決して夢を見させてくれないが、生きていける酸素を与えてくれた。ひとりじゃないんだと安心をくれた。彼だってそうだったはずだ。

「それでも待ってたの、待っていたのよ。あなたの口から聞かされるのをずっと待ってた。最後でもよかったのに」

現実は最後の願いすら踏み潰した。彼があの場所へ、私のところへ戻ってくることはついぞなかった。維持局がシティへの移住を公認してから私は居を移した。それまで数年。やはり音沙汰はなく、シティに入った自分を出迎えたのは、輝かしい功績を冠する彼の姿だった。晴れやかな姿に泣いたのは私だった。あの汚い場所に居る間に、彼は着々と過去を捨てていたのだ。それに気づいた時の惨めさは今でも胸にわだかまっている。だが、それももうじき終わる。窒息に喘ぐことはもうなくなるのだ。

「どういう意味だ」

ふ、と息を吹くように笑いを漏らすと、彼の眉間が険しくなり、声が硬くなる。水を吸って重くなった衣服が張り付く左腕を持ち上げた。手の甲に浮かぶ水の珠。つ、と流れて指先から滴り落ちる。彼の顔に驚愕の色が広がっていく。漏れた笑いは自嘲に似ていた。

「……今度結婚するの」

豪雨の最中に居るはずなのに、ここだけ台風の目みたいに僅かな音も拾わなかった。次第にその錯覚がなくなり、聞こえたのは身内の潮騒に似た鼓動だった。

「サテライト生まれでも構わないと言ってくれた人。私と似たような境遇で育った人だから、ひとりで居ることの不安と恐怖と、痛みを誰よりも知ってる。だから、あの人が言った約束を守るという言葉は何よりも信用できる」

婚約者はシティに生を受けながらも孤独の中で生きてきた人。家にも外でも馴染めず、そんな彼を周囲は遠巻きにし、どこにも居場所を見つけられなかった。常に怯えながら生きてきた人。私とあの人は鏡写しなのだ。何かに恐怖しながら常に安心を求めて生きている。そんな彼だから私は心を許せた。薬指を巻く指輪を見遣って、撫でるように指を這わす。あんな痛みはもう味わいたくない。

「さよならよ、ジャック。できることなら、もう会いたくなかった」

見つめる紫水晶から目を背けた。音が息を吹き返す。叩きつける雨の中を傘もささずに歩く女など、傍から見れば不気味この上ないだろう。奇異なものを見下す数多の視線に突き刺されながら逍遥した。途中ヒールが折れて足元が掬われた。刹那の浮遊の後、膝頭がしたたか打ち付けられる。鞄も転げ落ち、中身が散乱した。白む視界で、いつの日か貰ったあの赤い靴だけが目立っている。雨に濡れながらそれはなにを伝えようとしているのか。物言わぬ物を眺めながら、名状し難い感情が責めてくるのを感じていた。胸のわだかまりはいつになったら流されてくれるのだろうか。咆哮は雨音に消された。


/最後にとっておいてもいいよ
タイトル:ユリ柩さま
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