ボラギノール。
それは、イチジク型注入軟膏のイラストが全面に押し出されるようデザインされた、黄色のパッケージ。
その中には、プラスチック素材のケース一つに対して二グラム入りの軟膏が。それを、一箱に十個。
これが、『ボラギノール注入軟膏a座剤』であった。
 
人気の少ない深夜一時のドラッグストアで、陳列台に残された一箱のそれに、私は手を伸ばした。

「あ、ごめんなさい」
「いや、こっちも……」

ぶつかった指先から、その腕を辿っていくと、涼やかな深淵のように深く深く、暗い黒の双眸と、視線がぱちン。と、あった気がした。
否。
確かに目があった。
その、開かれた瞳孔は紛うことなく私を見ていたのだ。

節くれだった指先は、直ぐに私から離れていったけれど、私は確信していた。
そう、これはまさしく運命デスティニー。らぶ・そぅ・すうぃーと であろう、と。

***

ぱん、ぱん
軽やかな音が空へと響いている。
まるで私と土方さんの行く末を応援しようと囃しているかのようだ。

「では、勲ちゃん。行きましょうか」
「行きましょう名前さん!」

鳥居を跨ぎ、境内を突き抜け、本殿へと続く長蛇の列を乗り越え、私と、真選組局長でもある近藤勲は、今。数数多の苦難や願いを胸へと宿し、目の前の階段へ、足を乗せた。

そうして今日も、偏に願う。

***

歌舞伎町四丁目にある、私の職場から、ほんの少しばかり離れたファミリーレストラント『テニーズ』
その奥まった一角。窓からは程遠いひと席へと、私たちは腰を下ろしていた。

「よし、定例会を始めましょう! 名前さん!!」

いつものように闊達な微笑みを見せる勲ちゃんを通り越し、その向こう側へと向けた手を高らかに伸ばす。
そうして私は声を張り上げた。

「あのぅ、注文良いでしょうか!」


別に私は、この勲ちゃんゴリラと特別親しい間柄、というわけでは無い。
では何故、こうしてここに居るのか。
それは偏にタダ飯が食えるから、と言うわけでも無い。断じてない。
しがないキャバレーで働いている貧しい人間であるからと言って、そこまでは卑しくはないと断言する。私は。

では、なぜか。
それはこの男との共通の知人、──つまり、私の大切なひと──そう、土方さん。
この目の前の冴えないゴリラのような男は、土方さんの上司にあたり、私へと時折有益な情報をくれる、いわば、──使い走……否──同志のようなものでもあるのだ。


ドリアに、オムライス。ハンバーグ、ピザ。シーザーサラダに、コーンスープ。それからケーキに、プリン、パフェ。
色とりどりに染まったテーブルを目の前に、私は「いただきます」と手を合わす。
一口、ドリアを口へと放り込み、私は目の前で未だ何かを言いた気な勲ちゃんを見た。

「食べないんですか?」
「……い、いや、食べようかな、はは」
「あ、それは私のです。……それも。……これは良いですよ」
「…………名前さん、これはそうやって食べるものじゃ──……」
「さ、どうぞ」

勲ちゃんは、私の差し出すミントやパセリの乗ったスプンをそっと手で逸らしながら「はは」と、困ったように笑う。

「その後、トシとは何か進展でもありましたか、名前さん!」
「あら! 聞いてくださいます? 勲ちゃん!」
「え、ええ! ささ、食べながらでも」

勲ちゃん人里へと降りてきてしまった獣の遠吠えを尻目に、私は目の前のバナナの乗ったパフェを掬い、スプンを口元に運び入れる。

甘い。
一際に甘い果実に、舌が魅了されてしまいそうであった。

「あの、それ、オレの……名前さん、それ、オレが頼んだバナナパフェ、あのぉ──……」

「はじまりは、あの日。そう、確かに私と土方さんは、あの日から始まったのよ」
「名前さん、そのくだり、毎回やるんですか? 名前さん、あのぉ、名前さん、……聞いてェエ!! 名前さぁん!」

きっと、土方さんはお店へと、私に会いに来てくれているのよ。いつも。
そう、
ボラギノールを持って。
そうして言うの。
「悪い、近藤さん、来てるか?」なんて。
いつもいつも、そんな言い訳なんてしなくても、素直に私に会いに来た、と言ってくれればいいのに。
そう思ってしまうのは、贅沢なのだろうか。


「名前さん、それ、トシは本当にオレを迎えに来ただけ、名前さぁん──……」


あの日。
私はお客様と軽く喧嘩──違うわね。言い合いになり、お店の外へと蹴りだし──ではなく、お帰り頂くことになった日だったわ。

力み過ぎたらしい私のお尻からは、押し込み、穴の中へと仕舞ったはずのいぼ痔──いいえ。とにかく、花が咲いたのよ。丁度、お尻の辺りかしら。

「え、ちょっと待って!! 君、キャバ嬢なのに客と喧嘩ばっかりしてない?! 前ももめてたよね?!」

勲ちゃんハチミツ男の言葉は私には聞こえなかったけれど、窓の外の喧騒に、ため息を吐き出した。

今日、今頃。土方さんは何をしているのだろうか。
──市中見回りの為に火曜日のCルートを通っているはずだから、もしかしなくとも、そろそろ歌舞伎町を出る頃じゃないかしら──
私の事を思い出し、寂しくなってやしないだろうか。

頬杖をつきながらぐる、とお店の中を見渡していく。
今日はあの淡栗色のベビーフェイスが見えないから、真面目にお仕事をするために土方さんと居るのかもしれない。
羨ましい。
なんだか妬けてしまうわね。
また、ため息が一つ、買ったばかりのリップを塗った口から漏れていった。

***

あの日、また痔──お尻にお花が咲いたことに、私はたいそう落ち込み、行きつけの酒屋へと身を捻じ込んだ。
真っ青なあの暖簾を巻くった向こうには、馴染みの店主の可も不可もない顔が「らっしゃい」なんて私を招いている。

空っぽのお腹へと流し込んだお酒の味なんて、私は分からないくらいに虚ろな気持ちになっていた。
確か、三杯目のお酒をぐい呑みへと注いだ頃だったと思う。

隣の席へと、服も着ず、髭をこれでもかと蓄えた、まるで犯罪者のような風体で、銀さんが腰を下ろした。
あんまりにも不気味な風貌だったものだから、席を一つ避けて、見ず知らずの人間のふりをしたわ。

そうすると、銀さんは言った。

「やっちゃったよ」と。

「え!! ちょっと待って!!? 名前さん、あの日既に痔だったの?! ちょっと待って! だって俺、あの日ってトシに薬代請求──……」

─────────
─────
──

店主は言った。

「やっちゃったもんは仕方ないさ」と。

だから私も言った。

「やっちゃったわ」と。

「やっちゃったよー、……あぁ、やっちゃったなぁ」
「あー……やっちゃったわ。……またお尻、やっちゃったわぁ、」

そうこうして飲んでいたら、銀さんはいつの間にかいなくなっていた。
そう。
飲食の代金の書かれた、紙切れ一枚をそこへと残して。

私はお金なんて持っていなかった。
一銭も。
一銭たりとも。
ボトルキープしておいたお酒をほんの少し、飲むだけのつもりだったんだもの。
私はその日、店にとっては一銭にもならないお客だったのかも知れない。けれど、きちんと払うものは予め払ってあったのだから、飲みたいときに飲んでも文句は誰も無いはず。
咎める事なんて、誰にも出来る事では無かったのよ。

あの男さえ、来なければ。

「お財布ぐらいは持って行って!! お願いィ!! 無銭飲食になりかねないから!! ね! 名前さん──……」

────────
────
──

そうしたら、突然。
本当に突然だった。背中へと走る突然の衝撃。
今だって覚えている。本当に、怖かったわ。
世界が全部逆さまに見えたもの。
そのうち、土方さんの「驚いた」とでも言いた気な顔と、それを覆い隠さんとする程に近く。白目を向いた、銀さんの顔が見えていた気がする。

結局、気が付いたら病院のベッドの上。
見も知らぬ病衣に身を包んでいたことを覚えている。
知らない天井がそこにはあったし、消毒液の匂いがしていた。

隣のベッドの脇に置いてある尿瓶から、温かい匂いがしていたことも、覚えている。

ちっとも寂しくなんて無かった。ちっとも、怖いとも思わなかったの。
だって、直ぐそこには彼が──土方さんが、居たから。

私のベッドのすぐ横。
見るからに硬いパイプ椅子へと腰掛けていた彼は、真っ黒の瞳を私へと向けていた。
右手に下げたビニル袋を、私に差し出しながら、彼は言う。
「大丈夫だったか、悪かったな」って。

受け取った袋の中には、いつか、あのドラッグストアで手を重ねる事になったきっかけの黄色の箱が入っていた。

ボラギノール。
イチジク型の注入軟膏のイラストが描かれた、黄色のパッケージ。
今度は三十個入りだったわ。
初めてのときの数を覚えていないのか。
はたまた、私を思ってくださった分が増えてしまったのか。

とにかく、私は「覚えていてくれたのね」なんて、言ったかも知れない。

そう。
私たちの思い出は、いつだってボラギノールとともにあった。

__________
____
__

「え、それ覚えてていいの?! それ、いい思い出ェエ!!?」

勲ちゃんケツヤスリの男の鳴き声を皮切りに、私はドンッとテーブルへと拳を振り落とした。

「それをッ!! あの男ォッ!!! 坂田銀時ィイッ!!!」

私の手の中で、お冷のなみなみと注がれたグラスがピシピシと悲鳴を上げていく。

「名前さん、お、落ち着いて……」
「あの男はッ! いつも私の邪魔をするのよッ!!」

バシャッとテーブルの上を水が迸り、私の着物の裾までもを濡らしていく。
左手の中にわずか残る、グラスの破片をそのままに、テーブルを叩きつけた私は、静かに立ち上がった。

「あ、あのぉ、すいまっせぇえん!! だ、ダスター!! ダスターくださァアい!! け、怪我はッ?! 怪我っ!!」
「聞いているの!! 勲ちゃんッ!!! あの男ったら! 私が土方さんの五メートル後ろを歩いていたらッ!! 必ず姿を現すのよッ!! 坂田銀時あの男ォオッ!!!
きっと土方さんをつけているのに違いないわッ!!」
「ストーカー?! ストーカーなの?!! それ名前さんストーカーですよ! 名前さん! 犯罪じゃないっスかァ!!」
「黙りなさいッ!! ストーカーッ!!! お妙ちゃんのお尻を追っかけまわしてッ!!! 恥を知りなさいッ!!」
「エェェェェエ?! オレ?! それ!! 盛大なブーメランだよ!!?」 
「どうでも良いわよ! そんな事ォッ!! 逮捕なさいよッ! あんな銀さん無銭飲食男ォォォオッ!!!」
「え、えぇぇぇえ」

勲ちゃんストーカーの首もとを、テーブル越しに引っ掴み、揺らしながら訴えかけていると、やにわにテーブルの上へとピンクのダスターが叩きつけられた。

にわかに振ってきたピンクのダスターから伸びる腕を視線でなぞり上げていくと、豊かな菫色の髪を揺らしながら、真っ赤なメガネを押し上げた女がいた。
そして、女は叫ぶように言う。

「なに!!? 銀さんのストーカーですって?!」
「あなたが誰だか知らないけれどそうよッ!! 銀さんはタチの悪いストーカーよッ! 私と土方さんの仲を引き裂きたいんだわッ!!」
「銀さんにタチの悪いストーカーッ!? 何てことっ!!」
「待って! それトシじゃなくってさっちゃんさんたちの事だよね?!!」
「土方十四郎! ただじゃおかないわ!! 待ってて銀さん! 今助けに行くからァァァアア!!!」 

勲ちゃんまだケツ毛まで愛されていない男は目を白黒させながら、赤メガネの女がどこからともなく持ち出した納豆を店中に振りまき、過ぎ去るのを見送っていた。
次の瞬間、勲ちゃんゴリ・ラは泡を食ったように自身の服をまさぐり始めた。

「どうしたの? ゴリラのようで見苦しいわ!!」
「そ! だ!! エッ?! ゴリ……いやッ!! このままじゃトシが危ないっ! 屯所に連絡を──……!!」

勲ちゃん輪廻転生ゴリラの腕をそ、と抑え、私は店内の時計を見やった。

「今土方さんなら三丁目のクニ子ばぁのところで丁度煙草を買って、合計三本、吸い溜めをして居る頃よ。
きっとまだ一本目の時間だわ。安心していいわね。土方さんはまだまだ屯所へは戻らないわ。きっとさっきの女とはすれ違って終わりね」
「え、何を安心すんの? どこにも安心できる要素無かったよね? 名前さん、それ、ストーカーっすよ……」

生憎、私には学はない。
ゴリラ語の解読なんて出来る筈が無かった。
野太い声が店内に響き渡り、まるでウッホウッホホとドラミングなどを興じているような彼から、私は視線を逸らすことにした。

あぁ、トシさんに会いたい。

「行くわよ! ゴリラ!!」
「え、俺の話しまだ何にも、っていうか呼び方──……」
「速くなさいッ!!」

私は伝票を勲ちゃんストーカーの額に叩きつけ、美しく空っぽの食器の器が並んだテーブルを見る。
今日も、完食した。
美しい光景であった。そして、満ち満ちた、お腹。
これなら今日の夕飯も、もう必要なさそうだ。

「え、えぇ……」と、鳴き声のような音を漏らして困惑する勲ちゃんを引きずり、今日も最強のパワースポットだと銘打たれた、かの名高い神社へと足を向ける事とする。

「…………名前さん、オレの話しは聞いてくれたこと無くない──?」


─────────
─────
──

待つこと二十五分と少し。
私達は今日も、憎きお邪魔虫の不運を願い、本殿の階段を一歩一歩と踏みしめた。
そして、ぱぁんぱぁん! と、高らかに両手を鳴らし、居るかもわからぬ神へと頼む。

どうか!
どうぞあのちゃらんぽらんのお尻が瀕死になり、私と土方さんの、──トシさんとのラブ・ハプニングが起こりますように!
そのためには、ひとまず!
なにとぞ!
なにとぞッ!!!

「「銀さんのお尻が! 咲きますよーぅにッ!!!」」

名前を呼んだら咲いてほしい
名前を呼ぶから咲いてくれ!!

「ねぇ、銀さん。あの子、ほら、名前さんのどこがいいのよ?」

真っ黒のサングラスに映る太陽の光を遮るように、長谷川は寂れた公園のベンチ。そこへと腰を落ち着け、自身の隣へと腰掛けている銀時を覗き込むように見やった。

だらしなく足を投げ出し、白地に随所に流水紋の走る着流しを、片肌だけ脱いだ格好の銀時は、ぼけっとした呆け面のまま、鼻へと小指を突っ込んでいる。

ぐりぐりと指を回し、爪に付いた某を弾きながら、銀時が小さく唸るのを、長谷川は見ていた。

「そりゃアレだよ、ほら……」

頭をわしわしッと掻いた手を、自身の膝に打ち付けながら、銀時は続ける。

「やっぱ言わね」
「えー、良いじゃん。教えてよ」
「そりゃあ、……アレだ、あれ、……お尻、かな」

変わらず死んだ魚のような目で、表の往来をぼへぇっと見送る銀時の視線の先を、長谷川は見やり、口元を緩めた。

「ははぁ、お尻かぁ。銀さんも若いねぇ」

ぷりッとした魅惑的なお尻が、視界の向こうへと消えていった。


/名前を呼んだら咲いてほしい
タイトル:三拍子さま
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