あれだけ逞しかった身体は、私が軽々持ち上げられるほど小さくなってしまった。


「……っ、」

ハッとして飛び起きた。悪い夢を見ていた気がする。今しがた脳内を巡っていたそれは内容こそ忘れてしまったが見当はついていた。あの土砂降りの雨の中で無気力に突っ立っていた私を他人ながらに眺める光景。もっと色々あるだろうと思うのにいつもこれなのだ。色のない世界に変わり映えのない夢。いよいよ頭を掻きむしって発狂したくなる。

毎日、寸分の狂いもなく同じ時間に目が覚めるようになって何日が経っただろう。アラーム機能を必要としなくなったスマホを覗き込んで浅く溜息を吐く。空にはまだ薄い靄がかかって青とは言い難い白さがこの国を覆っていた。朝の5時13分。身体に刻まれた無意味な数字に今日も一抹の虚しさを覚える。

「……ハロ、こっちおいで。」

乱れた布団の隅で目を見開いた小さな犬に声をかける。これもまた、同じ光景。毎朝驚かせてしまって申し訳ない気持ちを誤魔化すようにハロの首元に顔を埋めた。干したての布団のような優しい匂いに、慌ただしく鼓動を刻む心臓が少しずつ落ち着きを取り戻す。最初の頃に僅かに鼻腔をくすぐった飼い主の香りは、もう感じ取れなかった。


降谷零が安室透として命を落としてからもう二週間が経とうとしている。
それはつまり、組織を壊滅させるという彼の悲願は終ぞ達成できなかったということでもある。これから先、何者かの手によってそのような未来を勝ち取ったとしても。それを彼が知ることはもうないのだ。であれば、それは意味を成さない。死んだ人間に届く声なんてありはしない、所詮残された人間のエゴでしかないのだ。冥途なんてものがあるなら死後になって評価され始めたゴッホも文句を言っているであろうよ。

まあ、つまり、何が言いたいかというと。好きだった男が死んだという如何にもありふれたストーリーがとうとう私に舞い込んだ、というわけだ。死んだ後になってその男の大事さがより浮き彫りになってしまったという、やはりありふれたおまけ付きで。

命の重みを問うことも馬鹿らしく思えるほど簡単に人が死んでいく世界に彼は身を置いていた。そんな潜入捜査はやめた方がいい、そう言えるほど同僚として肩を並べられていたとは思えない。とにかく優秀な人だったからね。かといってお願いだから危険なことをしないでと可愛く言えるような関係性でもなかった。…言ったところで降谷くんが聞き入れるとも思ってないが。もしお互いに何かあった時、色々と任せられる程度には信頼できるパートナー。それが私と降谷くんの関係だ。現にこうして彼の家に上がり込み、犬の世話をしている。まあ、夜な夜な彼を想い温もりや匂いを求めて布団に潜っているとは思っていないだろうけど。

「…ハロー。お前、これからどうする?」
「クゥン…?」
「……寂しいよねぇ。私もだよ。」

随分と殺風景な室内を見渡して彼の生前の痕跡を辿る。その度に打ちのめされそうになるのだ。どこをとっても降谷くんを感じられない。なーんにも残さずに逝ってしまった。こんなことなら意地を張らずに告白の一つでもして困らせておけばよかったな。ああ、もう。聞き分けのいい同僚を演じすぎた。

「…お前ってさ。俗にいう忘れ形見ってやつ、なんだよね。」
「アン!」
「……無責任な奴だよ。ほんと。」

飼い主の悪口を言ったからだろうか。一瞬怒ったように顔を顰めたハロが、見上げた先で大粒の涙を流す私を見て困ったように私の手を優しく舐めた。


「お前に言いたいことがあるんだ。でももう少しだけ待ってくれないか、組織を一掃してケリをつけるまで。」

降谷くんが死ぬ、ほんの数日前に彼は私にそう言った。少しドキッとしたのを覚えている。だって、なんだか愛の告白の前置きみたいじゃない?そんな素振りを見せられたことはないけれど。やけに真剣な横顔で茶化すことも出来なかった。…聞きたかったな、なんでいつもなら言わないようなこと言ったんだろう。

「こんな仕事してるのに無責任に犬なんて飼うなよ。…無責任に思わせぶりなこと言うな。」

どうせ死ぬならさ、黙って死んでよ。永遠に答え合わせができない問題を遺して逝かないで。

「クゥン…。」
「…私ね、お前の飼い主が好きだったの。好きって分かる?」
「アン!」
「そう…じゃあ私と一緒だ。」

だらしなく垂れた私の手をもう一度舐めて、顔を埋めるようにくっついたハロがそのまま静かに寝息を立てる。上下にリズムを刻む小さな身体を見下ろしながらまた一つ涙が零れた。行き場のない一人と一匹。きっとこの子の方が早く君に会えるね。あの世なんて信じちゃいないけど。

「降谷くん、君って本当に意地悪。」

最後の最後に私の中で生まれた期待が全然消えそうにない。ねえ、もしかして私達って両思いだった?とかいって勘違いだったらどうしよう。やだ恥ずかしい。……なんかさ、もうどっちでもいいから戻ってきて。君に揺さぶられるならもうなんでもいいから。友達とワァワァ言いながら恋バナとかさせてよ。

目的を見失ったアラームが6時を知らせる。身体を震わせ起き上がったハロに「ごめん」と言って、電源ごと落とした。ぽつぽつと降り始めた雨音が室内に響き渡る。安い木造建築だからいつか雨漏りしそうだなぁ、なんて。もういない住人の心配なんかしちゃって。

降谷くんが骨になった日を思い出す。火葬場で受け取った箱が本当に軽くて「こんなの絶対降谷くんじゃないでしょ」なんて笑う私の肩に、風見さんが風邪を引くからとカーディガンをかけてくれたことを覚えている。水分を含んだ布の方がよっぽど重くてそれがおかしかった。


「泣いてもキリないだろ。あいつの分まで生きて、職務を全うするんだ。」

仲間が殉職した日、降谷くんが私に言った言葉だ。なんで今思い出すかな、もしかして近くにいたりする?それなら早く成仏してね。ああ、でも、待って。

「……降谷くん、あの日なんて言おうとしたの。」

答えはない。あるわけない。幽霊なんて信じない。
窓なんて開けてないのにぬるい風が頬を過ぎた気がして、今度こそ布団に頭を沈めて堰を切ったように大声を張り上げて泣いた。どうして言ってくれなかった、どうして、どうして。例え君がいなくなったって、降谷零の女として生きたかったのに。

あの日、零は死んだ。信念という名の心を残して身体は朽ち果てた。あの日、私も死んだ。五体満足という名の身体を残して心は朽ち果てた。交わることのない心中を私達はしたのだ。


雨が私の気持ちを代弁するようにその激しさを強めた。朝が来る。宙ぶらりんな私一人を夜に閉じ込めて。


/口先のまやかしだけでよかった
タイトル:白猫と珈琲さま
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