鋭く皮膚を叩く音と共に、大きな男の手が跳ね除けられる。
男は一瞬目を丸くしたかと思うと、すぐに口角を上げ笑みを浮かべた。

「そんな顔をしないで下され、貴女と儂の仲ではありませぬか…」

そう言って再び伸ばされた手は、今度は払われることもなく頬へと添えられた。
しかしそれを遮るように、私は目の前の男──道満に背を向ける。
彼はその様子を見て楽しそうに喉を鳴らした。

「フフッ、つれないですねぇ……。一体どうしたというのです?」
「…………」

道満の声を無視して、そっと息を吐く。
それは白く染まり、やがて消えていった。
季節は冬。
雪こそ降ってはいないが、風は冷たく身に突き刺さるような寒さだ。
ここは平安京の中でも比較的温暖な地域なのだけれど、それでも冬の寒気というのは厳しいものがある。
私はぶるりと身を震わせて、両手を擦り合わせた。
その様子に気付いたのか、背後から声がかかる。
振り向けば道満が私を見下ろしていた。

「寒いのですか?」
「えぇまぁ……」

曖昧に答えながら小さく身震いする。
すると道満は大きな手で私の手を包み込んだ。
そしてそのまま自分の懐の中へ入れる。
まるで幼子にするような行動に驚いて顔を上げると、いつの間にかすぐそばまで近づいていた道満の顔があった。
思わず後退るが、道満はそれを許さず、腰を抱き寄せるようにして引き止める。

「ほら、これで少しは暖かいでしょう?」

確かに彼の体温のおかげなのか、先程よりもずっと暖かく感じる。
けれど同時に心臓の音も早鐘を打っていて落ち着かない。

「あ、あのっ!もう大丈夫だから離して!」

慌てて腕の中から逃れようとするものの、彼はそれを許さない。
むしろより強く抱き寄せられてしまった。
密着したことで分かる道満の高い体温と香の匂いに頭がくらくらとする。
こんなことをされて平常心で居られるほど、私は恋愛経験が豊富ではないのだ。
どうにか抜け出そうと必死にもがくが、彼の腕はびくりともしなかった。

「おや?随分とお熱い反応ですねぇ……もしや拙僧のことを好いているとか……?」

耳元で囁かれる低い声に身を強張らせる。
私が返事をしないので痺れを切らしたのか、道満はさらに言葉を続けた。

「名前殿には想い人がいるようですが、拙僧ならばその方を忘れさせて差し上げることもできますぞ?」

その言葉を聞いた瞬間カッと頭に血が上った。
咄嵯に手を振り上げて彼を突き飛ばす。
不意打ちだったせいもあってか、道満の体は簡単に離れた。

「いい加減にしてよ!貴方とはそういう関係じゃないから!!」

自分でも驚くほどの大声で怒鳴ると、私は踵を返してその場を走り去った。
後ろの方から呼ばれた気がしたが、振り返ることなく走り続ける。

(最低だ)

自分勝手なのは分かっていたが、それでも彼を拒絶せずにはいられなかった。
何故なら彼が言ったことは紛れもない事実だからである。
図星を突かれて感情的になってしまった自分が恥ずかしくて仕方ない。
きっと道満のことだから、私が誰を好きかなんて知っているだろう。
その上であんなことを言うなんて酷い男だと思う。

「はぁ…」

白い溜息がまた口から漏れ出た。
冷たい空気のせいで鼻の奥がツンとして痛む。
私はそれが涙腺を刺激するようで嫌になり、空を見上げた。
雲一つ無い快晴なのに何故か薄暗く見えるのは、今の気分を表しているからだろうか。
ぼんやりと見つめていると、突然視界いっぱいに広がる黒。
何かと思って見上げれば、そこには大きな影があった。
そしてその正体が道満だと理解するのに時間はかからない。
なぜならこの場にいるのは私達二人だけなのだから。
道満は何も言わず、ただじっと私を見下ろしていた。
やがて何を思ったのか、長い爪が生えた指先で私の目尻を撫でる。
その感触に驚いて肩を揺らすと、彼は困ったように眉を下げた。

「そんな顔をしないで下され……。貴女と儂の仲ではありませぬか?」

先程と同じ台詞を口にする道満。
けれど今度はいつものように冗談めいた雰囲気はなく、どこか真剣な声色だ。
私はそのことに戸惑いつつも、何も言えずに押し黙る。
道満はしばらく私を見下ろしていたが、やがてゆっくりと口を開いた。

「……すみません、少し意地悪が過ぎましたね」
「え……?」

走ったせいで乱れた私の髪を整えながら、道満は苦笑を浮かべる。
しかし次の瞬間にはいつもの微笑みに戻っていた。
そして私を安心させるような穏やかな口調で言う。

「拙僧が申したのは嘘偽りの無い本心ですが、それでも名前殿の意思を無視するつもりはありません。貴女の気持ちが変わるまで待ちましょう。まぁ、あまり気長に待ってはいられなさそうですけどねぇ……」
「……どういう意味?」

道満の言葉の意味が分からずに首を傾げると、彼はふっと目を細めて私の頬を優しく包む。

「そのままの意味です。さて、そろそろ戻りましょうか。斯様に冷えては風邪を引いてしまいますよ」

それだけ言うと道満は歩き出した。
私は慌てて後を追う。

(一体何だったんだろう?)

結局彼の真意は分からないままだ。

「名前殿?」

考え事をしていたせいで歩みが遅くなっていたらしい。
少し離れたところから名前を呼ばれ、慌てて駆け寄る。
そして横に並んで歩く道満の横顔を見た。
相変わらず何を考えているのか読めない表所だが、先程のことが尾を引いているのかもしれない。
私は無意識に彼の着物の端を握っていた。
すると道満は驚いた様子で足を止める。

「どうしました?」
「いや…、道満、歩くの早いから…」

慌てて言い訳じみたことを口にすれば、道満はくすりと笑って手を繋いできた。
彼の大きな手にすっぽり収まった自分の手がなんだか恥ずかしくて俯く。
けれど道満はそれを許さず、私の顎を掴んで上向かせた。
至近距離にある端正な顔立ち。
思わず視線を逸らそうとするも、彼はそれをさせないとばかりにさらに距離を詰めてくる。

「ち、近いよ…」
「おや?これしきで照れるとは初々しいことで……あぁ、それとも拙僧を意識しているので?」
「……っ!」

揶揄うような物言いに苛立ったは反射的に彼の手を振り払おうとするも、道満の力には敵わない。
逆にぎゅっと握られて引き寄せられてしまった。
そして耳元で囁かれる低い声。

「素直になってくだされば、今すぐにでも貴女を喰らい尽くして差し上げるものを…」

その言葉を聞いた瞬間、ぞくりと背筋に甘い痺れが走る。
私は恐怖と期待が入り混じる複雑な感情のまま、彼に抱き寄せられる。
いつの間にか空は暗くなり、雪が降り始めていた。

────────────

あれからどのくらい経っただろうか。
時間にしてみれば数十分ぐらいだと思うが、体感的には数時間にも思えるほど長い時間が過ぎた気がする。
屋敷に戻ってからずっと彼に抱かれていた。
初めは抵抗したのだが、いつの間にか力が入らなくなっていたのだ。
今はもうされるがままに身を委ねている状態だ。
道満はそんな私の体を労わるように何度も口づけを落とした。

「は…、大丈夫ですか…?」
「んぅ……」

優しい問いかけに小さく首肯するが、正直頭が回らないのでちゃんとした返事になっているかどうか不安である。
しかし道満はそれで十分だと言わんばかりの笑みを浮かべると、再び唇を重ねた。
熱い舌が私の口腔内に侵入し、歯列をなぞる。
それにゾクッと体が震えた。
逃げようとする私の腰を引き寄せ、より深く交わるように密着してくる。
そして長い時間をかけて堪能した後、ようやく離れていった。
息苦しさと快感から解放された私は、ぐったりと脱力する。

「ふむ、随分とお疲れのご様子」
「誰のせいだと思ってるの……」

恨めしげに見上げれば、彼は「拙僧のせいでしょうなァ」と言いながら私の額に口付けた。
その仕草はとても優しく、愛おしそうにしているように見える。
しかし私は知っている。
この男は私のことを玩具程度にしか思っていないということを。
不誠実という言葉が服を着て歩いている、そんな男だ。
けれどそんな男の言動一つで一喜一憂している自分も大概なのだろう。
きっと道満は私がどんな反応をするのか楽しんでいるに違いない。
だからといって、この誘惑に抗う術はない。
あの日、初めて会った時からそうだった。
彼という存在に魅せられ、囚われた哀れな娘。
それが私だ。

「名前殿」

熱っぽい声で名を呼ばれると、ゆっくりとした所作で再び覆いかぶさってくる。
見下ろす瞳にはまだ情欲の炎が灯っている。
その炎が私に燃え移っていくような感覚がした。

「名前殿」

もう一度名前を呼ばれた時、私は彼の背中に腕を伸ばして応えた。
道満は嬉しそうに微笑むと、噛み付くようにしてキスをしてきた。
そしてそのまま、私たちはまた互いの体温を分け合う行為に没頭していく。
これはただの暇つぶし──
決して報われることのない、虚しい恋。
愛を知らない獣のイタズラ、道化の遊戯。
それでも私は、貴方の側に居たいのです。

「道満…っ」

私は彼の名前を呼び、自ら彼の唇に吸い付いた。
道満は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに目を細めて私の後頭部を押さえつける。
そして貪るような激しい接吻を交わした。
道満はまるで私の全てを奪い尽くすかのように激しく求めてきた。
それに応えるべく、彼の広い背にしがみつく。
(どうか今だけは)
この時だけは全てを忘れさせて欲しい。
そう願った。

────────────

あれから何度体を重ね合っただろうか? 気怠い疲労を感じながらも、どこか満たされていた。
隣では道満がまだ眠っている。
私はそっと彼の頬に触れ、形の良い唇に指先を当てた。
すると微かに開いた口から赤い舌が見え隠れする。
私は誘われるようにそこへ自分の唇を寄せた。
ちゅっと軽く触れた後、名残惜しく思いつつも顔を離す。
閉じられていた瞼が開き、綺麗な黒曜石のような双眼が現れた。
彼はまだ眠そうな目でこちらを見つめている。
私は少し恥ずかしくなり、誤魔化すように口を開くがすぐに塞がれてしまう。
今度は彼の方から唇を合わせ、舌を絡めてくる。
突然のことに驚いて固まってしまったが、やがて自分からも積極的に求めるようになった。
しばらく濃厚な口付けを楽しんだあと、どちらともなく離れる。

「ん…、は…っ」
「朝から口吸いとは随分積極的ですなぁ。よもや誘っておられる…?」

寝起き特有の掠れた声色で囁かれ、カッと顔が赤くなる。

「ち、違う!……ちょっと、その、したくなっただけで……」
「ほう?」
「…………別に、深い意味なんてないから」
「フム、左様でございますか……」

道満はニヤリと笑うと私の首筋に唇を押し当て、強く吸った。
チクリとした痛みに思わず眉を寄せる。

「な、何をするの…!?」

慌てて体を起こそうとするが、強い力で押さえつけられて動けなかった。
抗議の声を上げようとしたが、再び口を塞がれる。
そして唇を割られ、舌を絡ませながら口内を蹂躙される。
息苦しさに涙が滲んだ頃になってようやく解放され、私は肩を大きく上下させて呼吸を繰り返した。
その様子を見て道満は満足げに舌なめずりをした。

「先程の仕返し、ということにしておきましょう」
「なっ……!」

しておいた方が良かったでしょうと言わんばかりの態度に腹が立ち、私はキッとその男を睨む。

「そんな怖い顔をなさらずとも、名前殿の嫌がることは致しませんぞ?」
「嘘つき」
「ンッフフ、信用されておりませぬなァ」
「当たり前でしょ!」

この男は本当に食えない男だ。
いつだって余裕たっぷりで、私ばかり振り回されている気がする。
それが悔しくて仕方がない。
しかしそんな感情すらもこの男の掌の上で転がされてるような気分になるのだ。

「名前殿」

不意に声をかけられて視線を向けると、彼はとても優しい表情をしていた。
慈愛に満ちた瞳に、胸が高鳴ってしまう。
こんなにも優しく名前を呼ばれたのは初めてだった。

「拙僧には名前殿しかおりませなんだ」
「…どういう意味それ?」

道満は私の問いに答えず、ただ微笑んでいるだけだった。
その笑顔はいつもの人を小馬鹿にしたようなものとは違い、まるで別人のように穏やかだ。

「名前殿は如何ですかな?もし他に好いた男が居るというならば、今すぐ殺してしまいます故教えて頂きたいのですが…」

道満は再び私を組み敷くと、耳元で物騒な言葉を甘く囁いてきた。

「……居ないよ」

だから安心して欲しいという意味を込めて答える。
……居たとしても言えるわけがなかった。
きっと彼は私が他の誰かのものになったら、この関係を終わらせるだろう。
それだけは確信を持って言えた。
道満は私の返事に満足したのか、嬉しげに微笑んで唇を重ねてきた。
外の雪は、当分の間止みそうにない。

─────────

「う…、寒い…」
私は布団の中で身震いし、目を覚ました。
隣では道満がまだ眠っている。
身体が冷えてはいけないと思い、布団をかけ直してあげた。
私もまだ起き上がれそうになかったので、彼の寝顔を眺めながら微睡む。
昨晩、何度も体を重ねたせいか腰や下腹に違和感があるものの、不思議と悪い気はしなかった。
むしろ心は満たされていた。
私はそっと彼の頬に触れると、視界が滲む。
悲しいわけではないのに、何故か涙が溢れてくる。
何故泣いているのだろうか?
自分でもよく分からなかったが、涙を止めることは出来なかった。
今まで彼を想って泣くことはあっても、目の前で泣いたことは一度もなかった

(…でも今は)

彼が眠っているこの時だけは素の自分に戻っても良いような気がした。
私は声を押し殺して静かに涙を流した。

「……名前、殿……?」

突然名を呼ばれ、ビクッと体が震える。
どうしよう、聞かれてしまったかもしれない。
焦っていると、ふわりと抱きしめられた。

「どうかなさいましたかな?」

寝起き特有の掠れた声で囁かれる。

「……なんでも、ない」
「……左様でございますか」
「うん」
「……名前殿、泣いておられる…?」
「…っ、泣いてない…、ちょっと寒いだけ」

鼻を啜りながら言うと、脱ぎ散らかした狩衣を手繰り寄せて私の肩や首元を覆うように掛けてくれる。

「今朝は冷えますなぁ」
「……うん、そうだね」

道満はそのまま何も言わずに私の頭を撫でてくれた。
ただ黙って側に寄り添ってくれている。
聡い彼のことだ。
私が泣いていたことには気づいていただろうが、そこには一切触れてこなかった。
改めて肝心な所で不誠実な男だと思う。
それでも私はこの手を離すことが出来ない。

「名前殿、寒ければもっとこちらへ寄られよ」
「ん……」

私は言われるままに身を寄せる。
すると道満は私の背中に腕を回し、隙間なく密着するように抱き寄せられた。
お互い裸のままだったので肌が直接触れる感触に少し戸惑ったが、すぐに慣れてしまう自分がいた。

「もう少し眠りますか?」
「……もうちょっとこのままが良い」
「承知しました」

道満の体温が心地良くて離れ難い。
この温もりを失いたくない、ずっとこうしていたいという気持ちが強くなっていく。
私は道満の首筋に顔を埋め、強くしがみついた。

(私、道満のことが好きだ……)

この想いを口にすることは許されない。
だからせめて、この瞬間だけでも貴方を独占したかった。
この関係に終わりが来るのを恐れている私は誰よりも臆病者なのだろう。
道満は何も言わず、ただ優しく髪をすくだけだった。
外の雪は、いつの間にか止んでいた。
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