その子の顔を見た瞬間、あ、コベニちゃんだとすぐに分かった。不安そうな面持ち。遠慮がちに肩を縮める仕草。白い貌に点在するほくろが懐かしい。私が高校を中退して以来になるから、大体三年ぶりになるだろうか。
ひとりで懐古に耽る私を余所に、集まったキャストたちの前に彼女を連れてきた店長は、彼女のことを体験入店の見習いだと紹介する。誰が選んで着せたのか、我々と同じような丈の短いワンピースを身に着けた彼女は、店長の後ろで居心地の悪そうに視線を彷徨かせていた。
ここは東京の中心部。宵の深まりに伴って息づく下層の暗部。下品な灯りがぎらつくこの場所で我々が営む商売は、俗に性風俗と呼ばれている。

歳が近いから(ここでの私は実年齢をふたつばかり偽っている)という理由でコベニちゃんの「教育係」に任命された私は、動きにくそうに短い裾をひらひらさせる彼女を、コーハイとして連れ回すことになった。
プレイルームに移動して、仕事の流れや設備について私が説明するのを、コベニちゃんは生真面目にひとつひとつ頷きながら聞いていた。
コベニちゃんは、私が同級生だとはまったく気がついていないようたった。当たり前か、と思う。名前は源氏名。仕事のために顔も変わった。制服を着ていた頃の面影はない。本当の自分なんて、知らないうちに捨ててしまった。
コベニちゃんに気づかれないでいること、こうして初対面として接することに、どうしようもなくほっとしている自分がいた。でもその傍らで、言い知れない淋しさもあった。旧知なはずの相手の認知がないというのは、どこかとても虚しい。
説明の端で、どうしてうちみたいなところに?と、気になって仕方ないことを聞いてみた。
お金を稼ぐなら他の方法だって……と続けると、彼女は逡巡する素振りを見せたのち、家庭の事情で、と呟いた。

「兄を大学に行かせるためなんです」

付けられた傷でも放置したままでいるようなかんばせだった。困ったような笑顔を見て、私は誰よりも高く宙に飛んで空を仰ぐ、三年前のコベニちゃんを思い出した。



大人しくて、クラスでも目立たなかった彼女は、体育の時間はヒーローみたいだった。
運動神経の良さとはこういうことを言うのかと、妙に腑に落ちたのを覚えている。球技に武道にダンス、なにをやらせても、彼女より上手にできる人はいなかった。身体を動かしている時のコベニちゃんは、普段の自信のなさそうな振る舞いはきっぱりと断たれて、まるで違うひとみたいだった。素早くしなやかな身のこなしはいっそ芸術的ですらあった。彼女の爪先から指先まではきっと、常人とは違うなにかが通っているのだと思った。

グラウンドで行われる体育の授業は特に嫌いだった。走るの怠いし、日焼けしたくないし。でもコベニちゃんの競技を眺める時間だけは、その憂鬱を忘れさせてくれた。
陸上部の部員が設置した高跳びのバーの上を、コベニちゃんはだいぶ軽々と飛び越えてみせる。背中と棒の間の空間が嘘みたいに広くて、もしかして跳んだ瞬間神様に引っ張られているのかもしれないな、なんて、夢見がちなことを考えたりした。

「帰宅部なのが勿体ないよ」

敏捷な猫のように着地した途端、わっとクラスメイトの歓声が立ち上る。口々に彼女を褒める言葉の中に紛れたその台詞に、コベニちゃんは曖昧に笑うだけだった。
もう一回飛んでみてよ、と促され、コベニちゃんはスタートラインに導かれる。期待の眼差しでバーをさっきより高く設定した彼女たちが脇へ離れるのを待って、コベニちゃんは軽い足音と共に地面を蹴った。
跳ねる両足。しなる背中。地面と平行に伸びる障害物を、やはり彼女はいとも簡単に飛び越えてしまう。刹那の対空時間がやけにスローに映って、まるで宙を泳ぐ魚みたいだと思った。



きついピンクのタオルの四隅を、私が教えたとおりに揃えるコベニちゃんを見る。俯く胸元は薄くて、お世辞にも色気があるとはいえなかった。肉感のない手足。骨っぽい鎖骨。ちゃちなドレスに身を包む彼女のことが、どうしようもなく切なかった。なにしてんのよと小突きたい。こんな服着ないでよ。こんな仕事覚えなくたっていいよ。
お願いだから、こんなところにいないでよ。

コベニちゃんの『実技講習』が決まったと連絡があったのは、初日から三日経った頃合いだった。
担当するのはうちの店ではあまりいい噂を聞かない男性スタッフで、先輩キャスト達はこぞって彼女を励ましていた。

「あの人の講習耐えられたら、なんでも大丈夫になるから」

紙のように顔を白くして、ぎこちなく頷くコベニちゃんを横目に、私は彼が「色気はねえがウケる層にはウケんだろ。しっかり調教してやらねェとな」と、休憩室で煙草を吹かしてせせら嗤っていたことを思い出す。

「いっそこんなお店なんてなくなっちゃえば、仕事なんてしなくてよくなるのにね」

明け透けな雑談の中で聞こえたそのひと言が、妙に耳にこびりついて離れない。



耳鳴りみたいな音がする。繰り返される反響音が次第に近づいてきて、それが耳鳴りじゃなくサイレンの音だと気がついた。
悲鳴と怒声。焦ったような靴音。ぞくぞくと外へ這い出してくる人々を見送りながら、私は裏路地から炎に舐められる店を見つめる。ビルとビルの狭間に立つ建物を目に収めつつ、私の世界はこんなにもちっぽけだったということを、今更ながら理解する。
砂を擦るような足音が近づいたのを察して振り返る。そこには唇をわななかせるコベニちゃんがいて、その視線は私が手にしているライターに向いていた。

「どうして……」

驚愕の面差しを浮かべるコベニちゃんに、私は薄らと微笑んで応える。派手なワンピースに包まれた彼女の痩せた身体がひどく哀しく映る。やっぱり似合わないなと苦笑する。
サイレンが近づく。私の居場所を焼き尽くす猛火が立ち上る先を追って、視線を上に向けた。競うように建つ高層階に切り取られる夜空はただ暗い。宙に浮くには遠いなと思う。
路地の反対側から、黒いスーツの男がやってくる。コベニちゃんが手を伸ばす。私はそれを遮って、彼女に背中を向ける。××さん、と呼ばれた名前は、教えた源氏名ではなく久しぶりに聞く自分の名前だった。なんだ、と笑みが溢れた。なんだコベニちゃん、分かってたんだ、私のこと。
スーツの男が懐に手を入れる。突きつけられる要求を想像しながら、私はひとり口角を上げる。コベニちゃんの声が背後で響く。私の名前が、彼女の声で何度も繰り返される。それだけで十分だった。
険しい顔つきの男たちに忽ち囲まれて腕を取られる。白と黒の車両が待機している。回り続ける赤いランプが、絶えず非日常を訴える。
彼女の声が雑音に紛れていく。瞳を閉じる。外界との繋がりを断つ。コベニちゃん、と心の中で呼びかける。
気づいててくれて、ありがとう。
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