1

 はじめて降り立ったトーキョーは、期待していたよりもずっと薄暗く、どぶのような匂いがした。その潔癖さと慇懃さでもって世界に名高いジャッポーネ。小さな島国に生きる窮屈なネズミたちが、内輪では缶ビールと競馬新聞を片手にだらしなく座り込み、食べ終わったジャンクフードのごみをアスファルトの上に投げ捨てて生きているのを見たの。
 自分の脳みそに日記をつけるみたいにそうやってつぶやいていると、一人掛けのソファに座って黙って煙を食べていた男が短く哂った。私は裸のままベッドの上で起き上がって、暗闇にきらめく彼の銀髪と、薄い唇のあたりからもくもく立ち上る紫煙を眺めた。そういえばいつだかに、どうしてセックスした後に必ず煙草を吸うのと訊ねたことがあったけど、彼は呆れたように目を細めただけだった。だからおつむのよろしくない私もはたと気付いて、どうして煙草を吸うのと、セックス後だけではなく日常四六時中に指の間か唇の間に煙草を挟んでいる男に訊ね直して、けれどやっぱり答えは返ってこなかった。
 トーキョー、と私はつぶやく。Shinjuku-ku, Tokyo。生ごみとホームレスにあふれたこの街で、息をする人々は心躍るほど互いに無関心だった。外の人工的な華色とにぎにぎしさが、窓には別世界をモニタリングするみたいに映し出されている。並んだ丸い球状のライトが交互に点滅する入口は少し呆れるほどに前時代的だったが、会えばセックスしかすることのない、知能のない私たちには、この寂れたモーテルはいっそ適切であったかもしれない。
 「すてきな街」と私は言った。男はまだ煙草と密談している。
 シーツを払いのけてベッドから下り、かびの匂いがするカーペットの上をぺたぺたと裸足で歩いていく。足の間から妙にぬめった液体がこぼれて、太ももを伝い落ちていく感覚があった。私がそばまでたどり着くと、彼はやっと、咥えていた煙草を銀の灰皿に押し潰した。その様は人を殺すワンシーンを連想させた。
「汚ぇな」
 私は肩をすくめずにはいられない。
「それならば、貴方もだわ」
「臭ぇんだよ。さっさとシャワー浴びてこい」
 嗚呼、なんと傲慢なこと! 私は頭を抱え、どこにもいない神に彼を密告したい衝動に駆られる。臭くしたのも汚くしたのも貴方、なればこそ罪の根源も貴方。さて弁明やいかに?
 男は懺悔の言葉を口にする気配がない。だから私はその場に膝を折ってしゃがみ、彼が腰掛けるソファの肘置きにそっと指をかけた。部屋はまだ相変わらずに薄暗く、アルデヒドと硫化水素の匂いが、性欲を煽る媚薬の香のように漂っていた。
「貴方の匂いだわ」
 肺を真っ黒に染め上げるアディクションは二種類のけむりから出来ている。冷たい肘置きをつうと指でなぞって男を見上げれば、男の顔はいつも通りのしかめ面であった。
 男は私の指を、ひどく気味の悪い芋虫を見るような目つきで睨んでから立ち上がった。そうして黒革のコートのポケットから一枚の写真とメモを取り出すと、乞食に紙幣を与える良心的な市民のように、私に捨てて寄越した。あら残念。気が利かない男ね、と私は歌う。人を殺す前のセックスよりも、人を殺した後にするセックスの方がきっとずっと気持ちよかったのに。
 そのまま私の横を通り抜けて部屋を出ていこうとする男の裾を、私はしゃがんだまま右手で掴む。男の脚がその場にぴたりと止まり、刺殺のために生まれたつららのような視線が私のこめかみを貫いた。
「もう一回しましょう、ジン」
 薄い緑の虹彩は身が震えるほど甘美だ。その視線でぐるりと身体を舐められるだけで、直接触れられたかのように肌が快感に粟立った。ハアと嬌声に似た吐息が呆気もなく唇の隙間から逃げていった。
 窓の外では毒々しいネオンが、行き交う人々を嘲笑うように絶え間なく点滅している。それに比べれば、こんな薄暗い部屋の中にぼんやり浮かぶ私の肌色なんて、失笑してしまうほどに優しいでしょう? あなたにとって私がそうであるように、あなたのその服の下、真っ黒い装束の下に息を潜めるパステルは、私にだっておいしいものなのよ、ミスター。

2

 路地裏に迷い込んだbrown ratはとうに虫の息だった。両膝と両手を地について、私にこうべを垂れるその様は、信者が神に祈りを捧げるそれで、いわばこの空間はひとつの礼拝室であった。ぽたりと男の首筋からしずくが垂れて、アスファルトの色をその一点だけわずかに変えた。液体が滴り落ちるのってきれいよね。私は誰にともなくそう呟く。
「デッドエンド・イン・トーキョー。ねえ、すてきな人生ね、これが終着駅だなんて」
 持ち上げた銃はおもちゃみたいに軽かった。トイピアノの鍵盤を押すような気持ちでトリガーに添えていた人差し指を引けば、十八ヘルツ下に外れたEsの音色が鞭打ち、男の身体がぱんと打ち上げられたみたいにその場に跳ねた。
 銃を撃つのはクラッカーを鳴らすのとよく似ている。何度だって耳にしてきたそれは、ひどく退屈でしらけた、青臭いインテルメッツォ。
 ねえ、だけど、あなたにとってはもしかして、悦びのファンファーレに聞こえたかしら?
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