遠くで烏の鳴く声が聞こえた。その声につられたようにふと外を見ると、随分と暗くなっていて。空は茜色が青い空を侵食し始めていて、一日が終わりに差し掛かっていることを告げている。その空の色で、名前は此処を訪れて相当の時間が経っていることに気づいた。
喜ばしい時間が経つのは早いものだ。一人で過ごす退屈な時間は、まるで永遠のように感じられるのに。過ぎたものは仕方ないけれど、名残惜しいような、もっといい一日の過ごし方があったような、そんな感じがして小さく嘆息する。
「名前」
ふと名前を呼ばれて振り返る。そこには暗い色合いの男がいた。実際には青い瞳だったり、左右で異なる柄に染められた鮮やかな羽織を着ていたり、決して暗いと一言で締め括られる出で立ちではないのだけれど。しかし、どうも彼は暗いと形容してしまうのは、彼の気質を知っているからだろうか。その暗さは、宵闇を背後にしているおかげで余計に目立っているようにも見えた。
「なあに、義勇さん」
寄りかかっていた縁側からゆっくりと腰を上げる。そして、庭先に立っている男――冨岡義勇と、視線を合わせた。
冨岡義勇――こうして彼の家を訪ねるくらいには仲のいい人。そして、自分の命を、よくわからない、恐ろしい何かから救ってくれた人。寄る辺のない己を、なにかと気にかけてくれる人。――それから、自分自身が生きながらえていることを、まるで罪とでも言いたいような目をしている人。
「任務に行ってくる」
「もう? さっき帰ってきたばっかなのに…」
「帰ってきたのは朝だ」
表情を変えずそう言う義勇の言葉に、ああそうかと納得する。そういえば今は日暮れなのだ。自分の時間感覚が相当緩慢なことを思い返して、息をつく。名残惜しいとも思うが、変わらず義勇の職業は激務であるらしい。
朝に彼は帰ってきて、風呂に入り、それから名前と食事をして。そしてしばらく経てば、またすぐに命懸けの仕事。ちゃんと休めているのだろうかと心配になるけれど、あまり口出しはしたくなかった。自分の知らない領域について何かとやかく言うのは、気の引けるものがある。
「それもそうか…それじゃあ、お暇しないとね」
心配やらで腑に落ちないところもあるけれど、名前は笑って素直に頷いた。どうせ家を出てから暫くは道のりは同じなのだから、ゆっくり話せたらいいな、など呑気に考える。
「…名前」
「どうしたの」
「一緒に歩こう」
どうやら、名前と考えることは一緒であるらしい。義勇の暗い群青を眺めながら、「うん」と再び静かに頷いた。
その瞳には、何が映っているのだろうか。下駄を吐きながら、他愛なくぼんやりとそう思う。どうせ、己にこの金の釦は不釣り合いである――みたいな、物悲しいことを考えているのだろう。
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家から出発してからの道のりは、静寂に包まれていた。ざくざく、お互いの履き物が砂利を踏む音だけが辺りに響いている。義勇も名前も口数の多いほうではないから、二人のあいだに静寂があることは珍しいことではなかった。
辺りを囲む竹林により、たたでさえ傾いている陽光はさらに遮られ周りは薄暗い。日が落ちると奴らは蠢き出す。それは、義勇が教えてくれたことだった。また"あれ"に会ったら嫌だなあ、と息をつく。
「名前」
名前を呼び止められて、振り向く。いつの間にか、義勇は数歩前で歩みを止めていた。暗がりの竹林のなかで、じっとこちらを見つめている。
急がなくていいの、とか、聞きたいことはあったけれど、きっとそれは愚問だろうと思い黙っておく。
「今回は…」
「うん」
「今回はいつもより、務めは困難かもしれない」
義勇と視線がかち合う。
――まるで、自分が生きながらえていることを罪だとでも思っているような、暗がりの青色。
「そうなんだ」
「何人もの鬼殺の剣士が、消息を絶っている」
「……」
「俺も…」
この先、義勇が何が言わんとしているのかわかってしまって。何かを言いかける義勇を、名前は咄嗟に遮った。
「死んだらいやよ」
「…そうか」
じっと彼の瞳をまっすぐ見据えると、義勇はさりげなく名前の視線から逃れようとする。それに名前は小さく息をついた。
義勇は、生きながらえていることを罪のように感じている。それは名前の主観に過ぎないけれど、最愛な姉とかけがえのない親友を、自分を守る形で失っている彼が思っているとしてもなんら不思議ではない。現に、彼は『自分が代わりに死んでいれば』と以前名前に零したことがあるのだから。
別に、彼は死にたがっているわけではない。姉と比べ、親友と比べ、自分の価値は最愛の彼らに大きく劣ると嘆いても自死を選ぶことはなかった。
かといって、義勇には生きる由もなさそうで。鬼殺の剣士として生き抜いているのは、自らが冠する『水』の称号のためであり、名前を含む人々のため。きっと自分のためだとか、そんなものではない。自分自身の幸せすらも望んでいないだろう――大切な人に守られ、生き延びたつみびとには烏滸がましいとすら思っているかもしれない。
死にたがってはいないけれど、かといって生に執着しているわけでもなく。ゆえに、『罪』に対する『罰』が死なら、彼は躊躇いなく受け入れるだろう。
「義勇さんが死んだら、なんのためにお裁縫できるようになったのかわからなくなっちゃうわ」
「仕立て屋にでもなればいい」
「…もう」
名前は苦笑した。――変わらず義勇は、自分のことを抜きにして考える。違う、違うのに。裁縫も料理もお洒落も、何か義勇の役に立ちたくて培ったものなのに。義勇は自分が死んでも大丈夫だと、生きていけると言いたげだけれど、全然そんなことはないのに。
どうか、自分には価値がないなんて考えないで欲しい。自分が姉や親友の代わりになればよかったなんて、考えないで欲しい。
義勇が歩き出す。名前もそれに従って、隣ではなく、義勇の数歩後ろをついて行く。
「義勇さんが死んだら、こうして笑い合える人もいなくなっちゃう」
「……」
「私、友達いないの」
我儘だと思われるだろうか。けれど、名前が言えるのは死なないでほしいという自分の望みのみ。自分の存在を卑下しないでほしい、なんて口が裂けても言えやしない。と、思うのは、自分に自信がないから。
義勇は自分自身か庇われるように姉と心友を失ったけれど、名前にはそのような経験はない。やりきれない思いを抱えたまま刀を握り、頂点まで上り詰めた見聞もない。そんな名前があれこれと言うのは、不遜な気がする。
ゆえに死なないで、としか言えない。…笑い合うというのは、やや語弊があるかもしれないけれど――名前は彼が笑う姿を見たことがない。
「…そうだな」
背中越しに義勇が相槌をうつ。名前は義勇が物静かに相槌を打ってくれるのが好きだ。
自分はそれほど話し上手でもないし、同性の友達も少ない。…その数少ない友も義勇と同じ剣士で、先日殉職してしまったのだけれど。家族だっていない。義勇もいなくなってしまったら、ほんとうに名前は一人ぼっちになってしまうだろう。
ゆえに義勇には死んで欲しくないし、この命は義勇が助けてくれたもの。助けてくれた義勇が無価値なひとなら、拾い上げてくれたこの自分はどうなってしまうのだろうか。…結局は、自分の都合で義勇に生きて欲しいと願っているのだ。自分の命と、彼との和やかな時間を過ごしたいがために。
「…名前」
「なあに」
再び義勇が名前を呼ぶ。次の瞬間には視界が暗くなって、義勇に抱擁されているのだと気づいた。目の前に広がる小豆色の羽織を一瞥してから、ゆっくり目を閉じる。
義勇と名前は恋仲だとか、そんなものではない。義勇が名前の命を助けたことがきっかけで徐々に近しい存在となり、名前は義勇を恋慕しているし義勇も特別な情を抱いていた。互いに想いあっていることを義勇も名前も知っていたけれど、特別な仲になることはない。
親しい間柄になるなど、罪をかかえた義勇は決して許さないだろうから。
どれくらいの時が経ったのだろう。名前はゆっくり面を上げ、義勇と相対する。緩慢な動作で彼の端正な顔に触れると、こつりと義勇の額に自分のそれをくっつけた。
「ご武運を」
義勇は返事をすることはなく、ただ静かに目を閉じて、暗い群青色は隠れる。額を合わせながら名前は残酷だ、と思った。死ぬことを本望としていないとはいえ、その気持ちを救済することもなく、さきほどから彼が生きることを請い続けることはなんと酷いことだろうか。
けれどきっといつの日にか、その気持ちを汲み取ってくれる人が現れるはず。自分ではない誰かが、生きながらえたことはけして罪ではないことを教えてくれるはず。それが誰かはわからないけれど、漠然とした確信があった。それまで、名前は気休めの言葉を言い続ければよいのだ。
「…ありがとう」
その最中も、義勇の表情は変わらない。罪に対する罰を、求め続けているかのような顔をする。
――生きながらえたことに罰があるのだとしたら、それは償うこともできず、誰かに生きて欲しいと乞われ続けることではないだろうか。