※男主人公


──神様がいた。
彼の綺麗な指が軽やかに白黒の鍵盤を叩くと、表現しえないほど美しい音色がホールに響きわたる。
その音は時に悲しげに、時に楽しげに、まるで意思を持っているかのように表情を変えて、聴く者の心を掴んで離さない。
ステージの上で、眩しいほどの照明と大勢の視線を浴びながらも、彼の創り出す音は緊張なんて知らないとでも言いたげな自信を孕んでいた。
鳥肌が立つような感覚と共に、頬を涙が伝う。
ああ、ああ、そうか、彼こそが。
やっと見つけた、俺の神様。


暑い夏の夜だった。
じめじめと蒸し暑く、扇風機から送られる風もどこかぬるく不快で、額や背中に滲む汗がひどく鬱陶しい、とにかく嫌な夜だった。
日が長い夏とは言っても、21時を過ぎたこの時間になれば外は真っ暗で、昼間あんなに存在を主張していたセミの鳴き声もいつの間にか聞こえなくなっている。
エアコンがついていない上に、防音のために窓もドアも閉め切られたこの部屋で、ただひたすらピアノを鳴らす。
隣に立つ母の視線のせいか、それとも単純に暑さのせいか、息苦しくて仕方がなかった。
ようやく曲が終わって、鍵盤から指を離す。こめかみを汗が滑り落ちたが、それを拭うことすら億劫だった。
顔を母の方に向け、言葉を待つ。無表情で腕を組んでいた彼女はおもむろにピアノの方に手を伸ばし、立てかけてある楽譜を掴むと、それを俺に向かって投げつけた。
地面に落ちたその楽譜を踏みつけ、母がぎっと俺を睨む。

「なによ、その演奏」

数枚の紙が飛んできたところで、身体的にもメンタル的にも大したダメージはない。しかし、俺の視線は踏みつけられた楽譜から動かなかった。

「なんとか言いなさいよ!」

怒鳴られ、肩がびくりと震える。大きな音や声は苦手だ。
顔を上げて母の顔に焦点を合わせた。眉を吊り上げ、口元を歪めるその表情は鬼のようで、今日は何が気に入らなかったんだろうなあ、なんてぼんやり考える。

「……どこがダメでしたか」

背中を嫌な汗が伝い落ちるのを感じながら、声を絞り出した。
それを聞いた母はバカにしたように「はあ?」と声を上げ、嘲笑を浮かべながら言葉を続ける。

「そんなこともわからないの?」
「すみません」

すかさず謝ると、苛立ちを表すように大袈裟なため息をつかれた。

「自分で考えなさいよ。こんな演奏じゃ、恥ずかしくて舞台になんて立たせられないわ」

そう言い終わると、母は部屋を出ていった。
重いドアが閉まる音がしたと同時に深く息を吐き出す。息苦しい。
床に散らばる楽譜に視線を落とし、1枚拾い上げた。

「……暑いな」

茹だったように不鮮明な思考のまま、閉められた窓の外を見る。
いっその事、逃げてやろうか。
そう考えたことは何度もある。だけど、俺はこの家からは逃げられない。
母がピアニストで、父がヴァイオリニスト。絵にかいたような音楽一家のもとに生まれた俺は、それが当然とでも言うように、それこそ物心つく前から楽器に触れてきた。
ヴァイオリン、フルート、トランペット、オーボエ、ギター、その他もろもろ。まるで適性を調べるみたいに色んな楽器をやらされたが、どうやら俺に一番向いているのはピアノだったらしい。
始めたばかりの頃は、ピアノを弾くことを楽しんでいたような気がする。
母の指導のもと、簡単な童謡だとかを弾いて、母と一緒に歌って。些細なことでも褒めてもらえるのが嬉しくて、もっともっと上手くなりたい、って、その一心で練習に励んでいた。
だけどいつからか、母が俺を褒めることはなくなった。いくら努力しても、どれだけ完璧に演奏しても、俺に向けられるのは笑顔ではなく怒声だ。
ピアノをやめたい。この家から逃げ出したい。
心の底からそう思っていても、それを言葉には出せなかった。
勉強も運動も不得手で、人見知りなせいか学校に友達がいない俺にとって、唯一の取り柄がピアノであり、唯一の居場所がここなんだ。
それに、ピアノをやめてしまったら、俺は……。
楽譜を持つ手に力が入る。くしゃ、と小さな音をたてて楽譜が歪んだ。
再び深呼吸をして汗を拭う。時計を見上げると時刻は22時をまわっていた。
汗でシャツが肌にはりつき、気持ちが悪い。
とにかくシャワーを浴びて、今日はもう寝よう。
部屋を出る前に、床に散らばったままだった残りの楽譜を拾い集める。母親に踏みつけられたせいでぐしゃぐしゃになったそれは、ひどく不格好で、汚らしかった。


夢を見ている。
すぐにそのことに気づいたのは、会えるはずのない人物が隣にいるからだ。
真っ白な空間。床も壁も天井もない、ただ白いその場所に、黒いピアノが確かな存在感を放ちながら居座っている。
俺の隣に立つその人は、静かにピアノに近づいて手招きをした。指示されるままに俺もピアノの傍に寄る。
彼の細く長い美しい指がピアノの鍵盤に触れる。愛しい恋人の頬を撫でるように優しく、丁寧な動作で白黒のそれをなぞり、そのまま何かの曲を弾き始めた。
夢のなかだからか、音は聞こえない。彼が触れる鍵盤を見て推測する限りでは、この曲はおそらく、きらきら星だ。
懐かしいな。昔よく弾いたっけ。小さい頃はこの曲が大好きで、母と一緒に歌いながらピアノを鳴らし、笑っていた。
母が最後に俺に笑顔を向けたのは、いったいどれくらい前だろうか。
記憶を掘り起こそうとしても、上手くいかない。きっと夢のなかにいるからだ。
ふと、彼の指が動きを止めた。不思議に思っていると、彼はその綺麗な顔を俺に向けて、じっと、何かを訴えるように目を合わせる。
そして名残惜しそうに鍵盤から指を離すと、俺に背を向けて歩き出した。
少しずつ遠くなっていく彼の背中を呆然と見つめていたが、急に心細いような、寂しいような、怖いような、よくわからない感情が込み上げてきて、たまらず俺は足を動かそうとした。けれど、蝋で固められたようにまったく動いてくれない。
泣き出しそうな気分だった。
遠い場所にある彼の背中に腕を伸ばし、必死に叫ぶ。
待って、待って、待ってよ、ねえ、神様。


ツンと鼻の奥が痛くなって、目が覚めた。ゆっくり目を開けると、目尻から涙がこぼれ、音もなく流れ落ちていく。
目元を手で拭い、起き上がる。部屋のなかは真っ暗だ。
先ほど見た夢がフラッシュバックのように思い起こされる。こことは正反対に真っ白な空間、立派なピアノ、そして、それを楽しげに弾く彼。
夢に彼が出てくるのは初めてではなかった。
昔、海外のコンクール会場で聞いた彼の演奏が本当に素晴らしくて、だから、俺もあんな風にピアノを弾きたいって、彼のようになりたいって。
ピアノをやめたいと思っていた俺に、ピアノを続ける理由をくれた。
俺にとって彼は、神のような存在だ。神様、だ。

「……喉、渇いた」

一度そう感じてしまうともうダメで、仕方なくエアコンの効いた自室から廊下に出る。
やがてリビングのドアの隙間から、光が漏れ出ているのが見えた。誰か起きてるのか。
気にせずドアノブに手をかけたとき、部屋のなかから母の声が聞こえ、動きを止める。
泣いているようにも怒っているようにも聞こえるその声はひどく震えていて、弱々しかった。けれど、もとからよく通る声をしているので、彼女の言葉は鮮明に耳に入ってくる。

「もう、耐えられない」
「何を言う。あいつに楽器をやらせようと言ったのは君だろう」

落ち着いた低い声が聞こえた。父の声だ。
父はまるで母を咎めるように言葉を続ける。

「自分の子どもが自分を超えたのが、そんなに悔しいのか」

母が息をのむ気配がした。
父の言う意味がよくわからなくて、ただ俺の心音だけがバカみたいに大きな音で鳴り響いていた。
夜中とはいえ、季節は真夏。空調も何もない廊下はじっとりと暑く、額に汗が滲んでいくのを感じる。

「あの子、どんどん上手くなっていくの。昔からセンスのある子だとは思ってたけど、あれは、あの子は、普通じゃない」
「そんな言い方はないだろう。自分の子どもに向かって」
「私が苦労してできるようになったことを、あの子はすぐにやってのけるのよ? 悔しいに決まってるじゃない」

段々と、母の声が大きくなっていく。それに従って明瞭になっていく母の言葉に反比例するように、俺の頭のなかはぐちゃぐちゃと、絵の具でも混ぜたように不鮮明になる。
両親が話している内容を、理解したくない。
ならすぐにその場を離れればよかったのに、俺は動けなかった。足が廊下に縫いとめられているみたいな感覚がする。

「コンクールで賞をとっても、プロの音楽家に絶賛されても、全然嬉しそうじゃないの。それにここ数年、ひどくつまらなさそうにピアノを弾くようになった」

ドアノブに手をかけたまま、動けない。
か細かった母の声はいつの間にか随分と感情的なものになっていた。
怒りとか、恐怖とか、嫉妬とか、そういう負の感情で構成された彼女の声が、鋭利な刃物となって俺の心臓を突き刺していく。

「あの子はきっと、ピアノも、私のことも、好きじゃないのよ。私だってあんな、あんなバケモノ、愛せない」

震える足をどうにか動かして、俺はリビングのドアから離れた。
胃のなかに異物を詰め込まれたみたいに気分が悪い。冷たい汗がぶわっと噴き出して、あまりの寒さに身震いした。
ぎこちない動作で廊下を歩く。なるべく足音をたてないように。
たどり着いた部屋のドアをゆっくりと開けた。
楽譜や参考書がずらりと並んだいくつもの本棚が壁にそうように設置され、嫌な威圧感を放っている。中央にあるグランドピアノは、窓から差し込む月光を反射してキラキラと眩しかった。
後ろ手でドアを閉め、ピアノに歩み寄る。
椅子に座って、鍵盤蓋が閉められたままのそれにそっと手を伸ばした。
埃ひとつない、綺麗なピアノだ。定期的に調律しているので、見た目だけでなく音もきっと美しい。
……きっと? どうして「きっと」なんて、曖昧な言葉を使ったんだろう。昔からずっと、このピアノの音を聞いているはずなのに。
考えてみたけど、頭がうまく動かない。
窓の外を見ると、満月が空高くから俺を見下ろしていた。憎らしいほどの光が俺とピアノを照らして、スポットライトでもあてられている気分だ。
そのままぼんやりと月を見つめる。
少しだけ、疲れたな。


○ ○ ○



リヒトがいなくなった。
そう告げたときのクランツの顔はそれはもうひどくて、思わず笑いそうになるのをすんでのところで堪える。
しかし、何故か「笑いごとじゃないぞ」と睨まれてしまった。笑ってないのに。
オロオロと動揺している様子のクランツは、ぐるぐる部屋のなかを歩き回る。そして壁にかけてある時計を見て、深くため息をついた。
時計の針は昼過ぎを指している。部屋のなかはエアコンのおかげで快適だが、外では真夏の暑さが猛威をふるっていることだろう。

「今日は夕方からコンサートだっていうのに、どこに行ったんだ……!」

真っ青な顔でそう言いながら、クランツはケータイを手にとる。リヒトに電話をかけるのだろう。
クランツがケータイを耳にあてたのとほぼ同時に、着信音がなった。すぐ傍にある机の上から。

「あ、リヒたんのケータイ」

オレの言葉を聞いて、クランツは硬直した。


家出をしてしまった。
ピアノしか取り柄がなく、友達もいない。そんな俺の居場所はあの家だけだと、そう思っていた。
だけど、昨晩の母の言葉から察するに、あの家にさえ、もう俺の居場所はなかったんだろう。
すごく悲しくて、すごく惨めだった。
もう、ここにはいたくないと思った。
おかしな話だ。家にいたくない、なんて、ずっと前から考えていたことなのに。
母の愛情が俺に向けられることは二度とないと、どこかでわかっていたのに。
きっと俺は、ここが自分の居場所なんだ、って、そう信じたかっただけだったんだ。
誰にも何も言わずに朝早くに家を抜け出して、どこに行くでもなく足を動かし、気づけば駅の近くまで来ていたので、適当に電車に乗った。
そして、これまた適当に電車を乗り換えたりしているうちに、いつの間にか外の景色が田舎の田園から都会のビル群になっていることに気づく。
腕時計で時間を確認すると、もう昼過ぎだった。何時間電車に乗ってるんだ。そりゃあ遠くまで来てしまっているわけだ。
内心かなり焦っていると、車内アナウンスが次の停車駅を教えてくれた。

『次は、原宿、原宿。お出口は左側です』

原宿。この17年間ずっと東京郊外の辺鄙な場所に住んでいた俺にとって、全くの未知の領域である。
少し迷ったが、ここで降りることにした。
日曜日の昼時ということもあってか、電車のなかはそれなりの混み具合だ。長い間ずっと電車に揺られていたのも相まって、今さら気分が悪くなってきた。
まずい、人酔いと乗り物酔いのダブルパンチはさすがにこたえる。
駅に着いたのと同時に椅子から立ち上がり、人の流れに巻き込まれるようにして、なんとか電車から降りる。
ホームは人でいっぱいだった。日本中の人がいまここにいるんじゃないかと錯覚するほどだ。
とにかく、駅から出よう。改札はどっちだ。
キョロキョロと辺りを見回しながら歩いてみるが、お上りさんの俺にはさっぱり道がわからない。
あ、やばいな。本格的に気持ち悪くなってきた。
足もとがふらついているのを感じる。どこかふわふわして、立っているのに浮いているような感覚。
それでもなんとか前へ前へと歩いていると、不意に人とぶつかってしまった。力尽きたようにその場に尻もちをつく。
俺がふらふら歩いてるからぶつかったんだ。謝らなければ。

「す、すみませ──」

顔を上げてその人を見た途端、言葉が詰まった。
立ち止まったまま俺を見下ろす彼は、俺の、

「……、かみさま……」

ぷつん、と。テレビを消すような音が聞こえた気がした。


コンサートの開演まであと4時間と少し。
だが、衣装着替えやヘアセットなどの準備をする時間も欲しいので、実際のタイムリミットはもう少し早く訪れるだろう。
ケータイを忘れていったリヒトに連絡する手段はない。
まるでお通夜のような雰囲気のなか、頭を抱えるようにして机に突っ伏しているクランツが消え入りそうな声でオレに尋ねた。

「ロウレス、リヒトの居場所に心当たりはないか……?」
「んー、そうっスね……リヒたんが行きそうなところ、か……」

頭の後ろで手を組み、椅子の背もたれに体を預ける。
サーヴァンプであるオレと主人であるリヒトが長時間限界距離を超えて離れてしまうと、最悪死ぬことになるのだが……、彼はそのことを覚えているのだろうか。
でもリヒトのことだ。コンサートが始まるまでには帰ってくるだろう。
しかし、目の前で死人のような顔色をしているクランツがあまりにも気の毒なので、リヒトには早く帰ってきてもらいたい。
誰かリヒトの居場所を知ってる知り合いはいないだろうか。
そう思い、自分のケータイを取り出そうと上着のポケットに手を入れる。すると、何か紙のようなものが指に当たった。
取り出してみると、それはチラシだった。今日、原宿に移動動物園がやってくる、という旨のことが書かれている。
そういえば朝リヒトに押しつけられたんだっけ……、

「あっ」
「どうした?」
「リヒたん、原宿に行ってるんじゃないっスかね」

チラシを見せながら言うと、クランツはポップなフォントででかでかと「移動動物園」と書かれたそれを凝視する。
一瞬だけ間があいて、すぐにクランツが笑い声をあげた。

「ま、まさかな。大事なコンサートの日にそんな……」
「今日限定、って書いてあるっスよ」
「……」
「あ、ふれあいコーナーもあるって」
「……行ってるな」
「行ってるっスね」


真っ暗闇のなかでさまよっていた意識が、誰かに引っ張られるように覚醒した。
はっ、と目を開けて最初に視界に入ったのは知らない天井で、とにかく身を起こそうと体に力を入れる。

「まだ起きない方がいい」

すぐ横から聞こえたその声に視線をやると、天使のような羽のついたリュックを背負った男性が椅子に座っていた。
変わったリュックだな、と思いながら、彼の言うとおりに体の力を抜き、再びベッドに横になる。
羽のはえたリュックから少し視線を上げ、男性の顔を見たその瞬間、心臓が止まりそうになった。
白いメッシュの入った黒髪に、気の強そうな瞳。
ずっと焦がれてきたんだ。見間違うはずなんてない。
リヒト・ジキルランド・轟──俺にとっての神様が、いま、間違いなくそこにいた。

「なんだ、人の顔をじっと見て」
「えっ、あ、いやその、」

近くで見ると本当に綺麗な顔立ちをしてるなあ、なんてぼんやり見つめていたら、切れ長の目にじっと見返されてしまった。
慌てて視線を逸らす。すると、自分の腕に点滴が繋がれているのが見えた。
ここは、病院、だろうか。

「あの、俺……どうしてここに……?」
「覚えてないのか?」

驚いたような声音でそう言われ、記憶を掘り起こそうとしたが、原宿駅で電車を降りたあたりまでしか思い出せない。
正直にその旨を伝えると、彼は少し考える素振りを見せたあと、口を開いた。

「俺とぶつかって、倒れたんだ。医者は熱中症だと言っていた」
「ぶつかって……倒れ……」

リヒトさんの言葉を聞いて、思い出した。気持ち悪くてふらふら歩いていたら、彼にぶつかって転んで、そのまま気を失ったんだ。あの気分の悪さは熱中症だったのか。
ていうか、俺、神様にぶつかっておいて、その上病院まで付き添ってもらってしまっている……?
そのことに気づいた途端、さっと血の気が引くのを感じた。

「おい、顔色悪いぞ」
「申し訳ありませんでした!」
「は?」

光の速さで体を起こし、ベッドの上で土下座をする。
なんてことだ、俺なんかがなんておこがましいことを!
リヒトさんの大切な時間を、俺ごときが奪っていいはずない!
だって今日は、

「コンサートがあるんですよね?」
「……おまえ、俺を知ってるのか」
「もちろんです」

土下座したまま即答したら、リヒトさんはまたしても何かを考えるように少しだけ沈黙して、「とりあえず、土下座をやめろ」とやけに真剣なトーンで仰った。
おそるおそる顔を上げ、正座の姿勢をとる。
視界に入ったリヒトさんは仏頂面だった。やはり、俺みたいなどこの誰ともわからない他人につきあわされたので、怒っているのだろうか。

「コンサートは夕方からだ。今から戻っても間に合う」

どんな罵詈雑言を浴びせられるのかとビクビクしていたが、聞こえてきたのは存外優しげな声だった。
思わずリヒトさんの顔を見つめる。するとリヒトさんも俺を見ていて、ばっちりと目が合ってしまった。
びっくりして、「あ」とも「う」とも表現しがたい微妙な声が口から漏れ出る。恥ずかしすぎて土にかえりたくなった。
真っ赤になっているだろう顔を見られるのが耐えられなくて、片手で顔を覆い、俯く。

「どうしたんだ? まだ気分が悪いのか?」
「だっ、大丈夫です、その、き、緊張してしまって」

声は裏返るわ吃りまくるわ、推しとの握手会で上手く喋れないオタクみたいになってしまった。
そんな俺の言葉を聞いて、リヒトさんは首を傾げる。「緊張?」と、不思議そうに聞き返すので、俺はおずおずと口を開いた。

「あの、俺、俺も、ピアノをやってるんです。昔見に行ったコンクールでリヒトさんの演奏を聞いて、感動して、それからずっと、ずっと憧れてて……」
「……そうか」

俯いたままたどたどしく紡ぐ俺の声は、なんだかひどく情けない。
ちらりと上目にリヒトさんの様子を窺うと、彼は驚いたように目を丸くしていた。その反応が少し意外で、顔を起こす。
再び目が合って、数秒。ゆっくり瞬きをしたあと、リヒトさんは落ち着いた声で爆弾を落とした。

「俺もおまえを知ってる」

一瞬何を言われたのかわからなくて、頭が真っ白になった。
俺もおまえを知ってる。リヒトさんが、俺のことを、知ってる?

「えっ?」
「名字名前、だろ?」
「えっしかもフルネーム?」
「俺も、おまえの演奏を聞いたことがある」

ぎくり、と体が固まる。
自分の演奏を神様に聞かれていた、という予想外にも程がある展開に、思考がついていかない。
だけど、穏やかな空気が流れていたはずの病室に、突然張りつめたような緊張感が溢れたことは、すぐにわかった。
リヒトさんの放つ雰囲気が急に冷たくなったのを感じて、固唾を呑み込む。
肩をこわばらせる俺に鋭い視線を向けたリヒトさんが何か言葉を紡ごうとしたとき、病室のドアががらりと大きな音をたてて開いた。
2人揃って音のした方を見ると、そこにいたのは息を切らした見知らぬ男性で、椅子に座るリヒトさんを見て「あっ!」と声をあげた。
緩められたネクタイやシャツの襟から覗くネックレスに、腕にはたくさんのブレスレット。金髪に黒いメッシュ、という奇抜な髪色も相まって、なんだかチャラい感じの人だな、という印象だ。
いったい誰だろうかと首をひねっていると、チャラい人が病室に足を踏み入れ、そのまま大股でリヒトさんに近づいた。

「もー! 探したんスよ! ほら早く立って!」

がし、とリヒトさんの腕を掴んで、引っ張る。このチャラい人は、リヒトさんの知り合い、なのか。その割りにはさっきからリヒトさんが険しい顔をしている。

「触んな、クズネズミ」

そう言って、リヒトさんはチャラい人の手を払いのけた。今まで聞いたなかで一番低い声だ。
展開についていけず困惑していると、チャラい人の視線が俺に向いた。びくりと肩を揺らす俺にへらりと笑って、その人は明るい声をだす。

「あー、そんな怖がんなくていいッスよ。オレはロウレス。リヒたんの、……なんスかね? 知り合い? みたいな?」
「アバウトだ……」

思ったことがそのまま口から転がりでて、しまったとすぐに手で口を塞ぐ。しかしそんな俺を見てチャラい人──ロウレスさんはからからと笑うだけだった。
あれ待って、いまリヒたんって言った? もしかしなくてもそれはリヒトさんのこと、だよな。
かなり意外な呼ばれ方をしているリヒトさんにちらりと目をやると、人を殺せそうな目つきでロウレスさんを睨みつけていた。この2人、どういう関係なんだろうか。謎である。

「とにかく、早く戻らないとクランツの胃に穴があいちゃうッスよ」
「あ、コンサート……」

そうだ、今日は夕方からリヒトさんのコンサートがあるんだ。いつまでも俺なんかと話している場合ではない。
少し、いやかなり残念だけど、ここでお別れだ。もう会うことはないんだろうなあ。
そんなことを思いながら、最後に神様の姿を目に焼きつけようとリヒトさんの横顔をぼんやり見つめる。
リヒトさんは片手を口元にあて、目を伏せたあと、横目で俺の顔を見た。

「リヒたん?」
「……」
「り、リヒトさん……?」

黙ったまま俺を見続けるリヒトさんに、ロウレスさんも俺も首を傾げる。
やがて、リヒトさんが俺の手を取り、淡々とした口調で言い放った。

「おまえも来い」

真剣な瞳に射止められる。
有無を言わせない強さのあるその目を見てしまえば、頷くことしかできなかった。


「──で、連れてきちゃったの?」

マネージャーであるクランツさんの待つ控え室に戻ったリヒトさんがいきさつを説明すると、クランツさんは呆れたような、困ったような苦笑いを浮かべた。
本当についてきてしまったが、既に申し訳なさで胸がいっぱいである。
そりゃあ、コンサートのチケットも持っていない、こんな部外者がリヒトさんと一緒に帰ってきたんだ。驚くだろうし、迷惑だろう。

「1曲でいい。名前と連弾する」
「えっ」
「ええ……?」

リヒトさんの言葉に、真っ先に俺が声をあげ、一瞬遅れてクランツさんの困惑した声が響いた。
名前を呼んでもらえた感動よりも、連弾するというにわかには信じがたい言葉への驚きの方が大きい。
リヒトさんのコンサートなのに、俺が舞台に上がっていいはずがない。

「問題は何の曲にするかだが、」
「いやちょっと待ってください! それ以前にいろいろ問題があると思います!」

どんどん話を進めようとするリヒトさんを止めようと、思わず大きな声を出してしまう。
じろりと睨むような目で見られ、すぐさま「すみません」と謝ってしまったが、ここで押し負けてはいけない。俺なんかがリヒトさんと同じ舞台に上がるなんて、多方面に迷惑がかかるし、なにより、観客もそんなことは望んでいないだろう。
という旨のことをかなり丁寧な口調で訴えるも、リヒトさんは聞く耳持たずといった様子でクランツさんと話しだした。

「えっ、君、あの名字名前くんなのかい!?」
「ひぇっ」

リヒトさんから何を聞いたのか、突然クランツさんが目を輝かせて俺に詰め寄る。綺麗な顔が急に近づいてきて、驚きのあまり間抜けな声が出てしまった。

「えっと、名字名前は俺の名前ですけど、そ、そんなに有名では……」
「何を言ってるんだ、名字名前といえばかなり名の知れたピアニストだよ! リヒトの連弾の相手として申し分ない。観客もきっと喜ぶさ」

裏表のなさそうな優しい笑みを浮かべながらそう言うクランツさんに、何も言えなくなる。
黙り込んだ俺の頭からつま先まで、珍しい動物でも見るようにまじまじと眺めたクランツさんは、最後に俺の顔に視線を合わせた。そのまま顎に手をあてて「うーん」と唸る。
俺の顔に何かついているのだろうか。それとも、リヒトさんと並んで連弾するにはルックスがちょっとな……とか思われているのだろうか。
居心地が悪くて肩を竦めると、クランツさんが慌てたように距離をとった。

「あ、すまない、不躾だったな」
「いえ……」
「でも、君は……なんというか、舞台の上でピアノを弾いているときと、随分雰囲気が違うんだな」

そう言ったあと、彼はコンサートのスタッフと話をしてくると部屋を出ていった。
控え室のなかにいるのは、俺と、リヒトさん、そしてロウレスさんの3人だ。リヒトさんを探すために原宿中を走り回ったらしいロウレスさんは、疲労困憊といった様子で机に伏せている。

「名前」
「はいっ?」

耳元でかっこいい声で名前を呼ばれ、上擦った返事をしてしまった。それを特に気にすることもなく、リヒトさんは話を続ける。

「連弾の曲は、おまえが決めろ」
「え……、俺、が?」
「おまえが好きな曲なら、なんでもいい」

本当に俺がリヒトさんと連弾する流れになっている。それも、リヒトさんのコンサートの舞台で。
上演まであとどれくらいだろうか。今ごろクランツさんがスタッフと話をつけて、準備を進めている。もう、逃げられない。
連弾なんて、人と一緒にピアノを弾くなんて、初めてだ。
ずっと、1人で弾いていたから。
……いや、違う。初めてなんかじゃない。母と並んで椅子に座って、笑いながら、歌いながら一緒にピアノを弾いたこともあったじゃないか。
昔は、母が俺に弾く曲を選ばせてくれた。いつもいつも同じ曲名を言う俺に、母は笑って頷いてくれていた。
そうだ、俺が好きな曲。

「……きらきら星」
「わかった。それにするぞ」
「え、えっ、本当にいいんですか?」
「何がだ?」

何か問題があるのか、と、そう言いたげな目で見られ、口を噤む。
でも、だって、リヒトさんは俺の神様で、こんな俺なんかが神様と同じ舞台で演奏するなんて、おこがましいにも程がある。
こんな、誰からも愛されないバケモノが。

「……俺は、」

数秒の沈黙ののち、やっと俺は口を開いた。リヒトさんが無言で俺の顔を見やる。

「あなたと一緒に舞台に立つ資格がないんです」
「……」
「だって、俺はピアノを弾くことを、あなたみたいに楽しめない」

まっすぐ、リヒトさんの目を見据えて言ったけれど、情けないことに声は震えていた。

「あの日、あなたの演奏を聞いて、俺もこんな風にピアノを弾きたいって思った。でも、……でも、もう、ダメなんです」

リヒトさんは口を閉じたまま、黙って俺の言葉を聞いている。
家族に見捨てられたくない、居場所を失いたくない。その一心で、必死にピアノを鳴らしてきた。
でも、家族に見捨てられて、居場所をなくしたいまの俺にはもう、

「もう、ピアノを弾く理由がなくなってしまったから」

そう言いきったとき、じわりじわりと胸が痛くなった。心臓に針を刺されているような、内臓の内壁を抉られているような、自分でもよくわからない痛みだ。
それに耐えるように目を伏せ、唇を噛む。
リヒトさんが軽くため息をついたのが視界の端にうつった。

「おまえが演奏することを楽しんでないのは知ってる」

静かな声だった。しかし確かに怒気を孕んだそれに、俺は目を丸くして呆然とリヒトさんを見つめる。

「え……、」
「舞台の上のおまえは、人形みたいだ。意思も感情もない。ただひたすら譜面通りに手を動かし、音を鳴らしているだけの、操り人形みたいなんだよ」

ずきり、また胸に痛みが走った。
苦しくて、悲しい。けど、なんでこんな気持ちになるのかわからない。
この痛みから解放されたくて、助けを求めるように声を絞り出す。

「俺は、どうすればいい、ですか」
「知らねえよ、そんなこと」

ばっさりと切り捨てられてしまった。
肩を落とす俺から視線をはずし、リヒトさんが控え室に設置してあるピアノに歩み寄る。
椅子に座り、鍵盤蓋を上げ、曲を弾き始めた。
──きらきら星だ。
ああ、やっぱりリヒトさんはすごいピアニストだ。
心の底からピアノが好きで、心の底から演奏を楽しんでいるのが伝わってくる。
引き寄せられるようにして、リヒトさんの傍に足を進めた。

「おまえ、ピアノを弾く理由がなくなったって言ったな」
「はい」

そのとき、ぴたりと演奏が止まった。不思議に思っていると、リヒトさんがこちらを向いて自分の右隣を指さす。

「座れ。連弾するぞ」
「うえっ!?」

驚きと恐縮が混ざった気持ち悪い声が出た。
座るのを躊躇していると、しびれを切らしたリヒトさんが俺の腕を掴んで引っ張り、抵抗むなしく椅子に座らされてしまう。
俺が高音部、リヒトさんが低音部を弾く、ということは、メロディ部分は俺が担当することになる。

「あれっ、楽譜は……?」
「いらねえ」
「ええ……」

膝の上に手を置いたまま動けない。楽譜無しで弾くなんて、子どものとき以来だ。不安しかない。
リヒトさんの顔を窺う。視線に気づいたらしいリヒトさんがこちらに目をやって、仏頂面のまま俺の方に手を伸ばした。
ぽん、と頭にリヒトさんの手が乗る。そのままわしわしと撫でられた。
ぽかんとしていられたのはほんの一瞬で、すぐに状況を理解して顔が熱くなる。俺いま、神様に頭を撫でられて……、なんだこれ、なんだこれ……!

「不安そうな顔をするな」

気づけば至近距離にあるリヒトさんの綺麗な顔に、ますます顔が赤くなっていくのを感じる。
視線をあちらこちらに泳がし、どうにかこのかっこいい顔を視界からはずそうと試みたが、無理だ。近すぎて無理。
観念してリヒトさんと目を合わせる。
そのとき、ずっと仏頂面だったリヒトさんが、ふっと笑みをこぼした。

「自由に弾けばいい。俺が支えてやる」


クランツを控え室に残し、移動動物園が開催されている場所に急いだが、リヒトの姿は見当たらなかった。
絶対ここにいると思ったのに。どこに行ったんだあのバイオレンス天使。
仕方がないので、とにかく道行く人に声をかけてまわった。
子供連れの家族、カップル、老夫婦、学生、いろんな人に話を聞いたが、有益な情報は得られず。まさか、ここには来ていないのだろうか……。
いい加減疲れてきて、ベンチに座りため息をつく。その瞬間聞こえてきた声に、オレは弾かれたように立ち上がった。

「ねーおじいちゃん、ぼくもあの天使のリュックほしい!」

辺りを見回すと、おそらく祖父らしいお爺さんに手を引かれている少年がいた。いまの声はあの少年が発したもののようだ。
慌てて駆け寄り、人を探していることを伝える。

「天使の羽がついたリュックを背負った男? ああ、確かに見かけたよ」

お爺さんに後光が差して見えた。

「ど、どこで見かけたんスか? どこに行ったかわかる?」
「原宿駅だ。かわいそうに、高校生ぐらいの男の子が改札の近くで倒れてな。そのすぐ傍にいたんだ。倒れた少年と一緒に救急車に乗っていたから、今ごろ病院にいるんじゃないか」

親切に駅から一番近い病院の場所も教えてくれたお爺さんに感謝の意を伝え、とにかくその病院に向かう。
やっとたどり着いた病室のドアを開けると、気の弱そうな少年がベッドの上に正座していた。どこかで見たことある顔だな、と記憶を手繰り寄せる。
あ、そうだ。最近リヒトが気にしてるピアニストだ。ピアノ弾いてるときと全然違うから思い出すのに時間がかかった。名前はなんだっけな。覚えてない。
自己紹介もそこそこに少年のことを観察する。
舞台の上にいるときは無表情で、良く言えばクール、悪く言えば面白みのない人間に見えたが、目の前の彼はそんな印象からはかけ離れていた。

「おまえも来い」

リヒトがそう言ったとき、少年がほんの一瞬だけ顔を綻ばせた。気が弱そうに見えたのは、単にリヒトの前で緊張しているだけなのかもしれない。
控え室に帰ってきたリヒトが少年と連弾すると言いだして、クランツもノリノリでスタッフに話しに行った。ただ、名前とかいうその少年だけが、ずっと浮かない顔をしている。

「俺は、あなたと一緒に舞台に立つ資格がないんです」

真剣な表情をしているのに、その声は情けなく揺れていた。黙ったままのリヒトがどんな顔をしているのか気になったが、こちらに背を向けて立っているので残念ながら見ることはできない。

「もう、ピアノを弾く理由がなくなってしまったから」

震える声でそう言う名前は、ひどく苦しそうだった。


緊張とか不安とかがいつの間にかどこかに消えていて、いま頭のなかにあるのは、不思議な高揚感だけだ。
聞こえるピアノの音が、泣いて叫んで悲しそうにしたり、飛んで跳ねて楽しそうにしたり、コロコロと表情を変えて、まるで生きているみたいに聴覚を刺激する。
自分がその音を鳴らしているのが、信じられなかった。
心を支配するこの感情を、俺は知っている。昔は持っていたのに知らぬ間になくしてしまっていた、そうだ、これが、この気持ちが「楽しい」っていう感情なんだ。

「ピアノを弾く理由がなくなったって、そう言っていたが」

演奏を終えて、すぐにリヒトさんがそう切り出した。
鍵盤を見つめていた目を横に向けると、宝石みたいに綺麗な瞳と視線が交わる。

「好きなことをするのに、理由なんていらねえんだよ」
「……好きな、こと」
「おまえは、ピアノが嫌いなのか?」

リヒトさんのその問いに、昨晩聞いた母の言葉が頭をよぎった。「あの子はきっと、ピアノも、私のことも、好きじゃないのよ」と、吐き捨てるようにして唱えられたその言葉は、呪いをかけるように俺の心を縛っている。

「嫌い、です」

昔は好きだったかもしれない。ピアノを弾けば、母が褒めてくれるから。
だけど、いつからか母の笑顔が俺に向けられることはなくなって、母に褒められるためにピアノを弾くようになった。でも、どれだけ必死に弾いても母が笑うことはない。
だから、ピアノを弾いても、楽しくない。

「おまえ、嘘が死ぬほど似合わねえな」
「え?」

嘘、と指摘されたが、なんのことかわからず首をひねる。
そんな俺にため息をついて、リヒトさんは鍵盤に視線を落とした。

「好きでもないことを、あんなに楽しそうにやるわけねえだろ」

リヒトさんがそう言った途端、頭のなかがクリアになった。ぐちゃぐちゃに絡まっていた糸がほどけていくように、思考が明瞭になる。
ピアノを弾いても母が褒めてくれることはない。ピアノを弾いても、意味はない。そんなことはずっと前からわかっていた。
それにも関わらずいままでずっとピアノから離れなかったのは、好きだからじゃないのか。
「楽しい」という感情を忘れてしまってもなお弾きつづけたのは、ただ、ピアノが好きだからじゃないのか。

「そっか。嫌いなはず、ないんだ」

そう呟くと、リヒトさんは鍵盤から俺に視線を移した。
俺がピアノを弾くのは、母の気を引くためでも、自分の居場所を守るためでもなくて、本当は理由なんて、最初からなかった。いらなかったんだ。
なぜなら俺は、ピアノが好きだから。
やっとそれに気づけたのに、どうしてかズキズキと胸が痛くて、苦しい。
リヒトさんの視線を感じながら、俺は目の前のピアノをじっと見つめて、この痛みの原因はなんだろうかと考える。
そして、すぐに思い至った。
ピアノを弾くのが大好きなのに、それを楽しめていなかった。誰でもないだれかが、そのことを責めるのだ。
それがおまえの罪だと、そう糾弾している。
声をはりあげているのは俺自身だろうか。物心ついたときから一緒に過ごしてきたあのピアノだろうか。それとも、別のだれかだろうか。

「家族に認めてもらうためにピアノを弾くのは、楽しくなかった」

与えられた楽譜をなぞるように演奏することしかできなかった俺は、リヒトさんの言う通り、人形だったんだ。心を持たない人形が鳴らす音に、感情がこもるわけがない。

「……好きなことを楽しめないのは、罪でしょうか」

楽しめないから、嫌いだと嘘をついてきた。
もしそれが罪になるのなら、俺はどれだけの罰を受ければいいんだろう。

「罪になるかなんて知らねえ。けど、」

俯きかけていた顔を起こしてリヒトさんの方を見ると、彼もこちらを見ていた。
瞬きすら許さないような眼差しに吸い込まれる。

「おまえがそれを罪だと感じるなら、これから償えばいい」
「どうやって……?」

そう聞く声は自分が想像していたよりずっと弱々しくて、情けない気持ちになった。
リヒトさんがもう一度ピアノの方を向いて、鍵盤に触れる。優しい手つきで音を鳴らした。
きらきらひかる、おそらのほしよ。小さい頃からずっと好きだったその曲は、さっきリヒトさんと連弾した曲でもある。

「今のおまえは、演奏を楽しめるだろ?」

そう言って、リヒトさんは笑みを浮かべた。
連弾したときの感覚が蘇って、胸が震える。心の底から演奏を楽しいと思えた、あの感覚。

「なら、全力でピアノを楽しむのが、おまえの贖罪なんじゃねえのか」

自由にピアノを鳴らす楽しさを、リヒトさんが教えてくれた。
そうか、これまでとは違うんだ。これからは胸を張ってピアノが好きだって、俺はピアニストだって、そう言えるんだ。
俺はもう、人形じゃない。

「……やっぱり、リヒトさんは神様だ」
「神?」

何故か不服そうな顔をするリヒトさんがおかしくて、笑みがこぼれる。
そうだよ。リヒトさんはいつも、俺をどん底から救い出してくれる。
初めて演奏を聞いたそのときから、あなたは俺の神様なんだ。
いつの間にか、胸の痛みは綺麗に消えていた。
それなのに、ドキドキと胸が高鳴って、落ち着かない。それでも俺はリヒトさんと目を合わせて、噛まないように、吃らないように、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「ありがとうございます、リヒトさん」


──神様がいた。
彼の綺麗な指が軽やかに白黒の鍵盤を叩くと、表現しえないほど美しい音色がホールに響きわたる。
その音は時に悲しげに、時に楽しげに、まるで意思を持っているかのように表情を変えて、聴く者の心を掴んで離さない。
隣で一緒に演奏していても、彼の作りだす音に聴き入ってしまいそうになる。
それでも、俺は曲が終わるまで絶対に手を止めない。
だって、楽しいんだ。
ピアノを弾くのが、楽しくて楽しくて仕方がない。
この感情を思い出させてくれた彼こそが。
やっと出会えた、俺の神様。
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