私が横になっているベッドの傍らで、マキマが林檎を剥いている。
ナイフで皮を削ぐ手つきは慣れたもので、あっという間に四匹の兎が誕生した。
「食べて」
フォークを刺したそのうちのひとつを、彼女はゆっくりと私の口元に掲げる。渦を巻く独特な虹彩の奥に飼っているものは、果たして私と同じだろうか。

この一面真っ白な病室で目が覚めたのは、凡そ一ヶ月ほど前になる。覚醒した時の私は、自分が何者かということすら忘れた真っ新な状態だった。まるでこの部屋の内装を模したように。
「気が付いたね。良かった」と私の目覚めを確認したのが、いま兎を量産しているこのマキマだった。自身のことは綺麗さっぱり忘れていた私だが、何故かマキマのことだけは覚えていた。同じ仕事をしている同期。その『仕事』の内容については記憶になかったが、悪魔討伐を信条とするデビルハンターを生業としていることを、あとで彼女に聞かされた。
記憶にあった彼女の要素は、『同期』というたったそれだけ。身の回りの面倒を見てもらうにしては微妙な距離感のひとだったが、家族や恋人、他の友人についてひとつも思い出せる気配がない私にとっては、必然的に頼みの綱となった。

「……ありがとう」
ベッドから身を起こし、居住まいを正す。目覚めてからひと月以上も安静を言いつけられている私の四肢には、外傷は一切ない。
「……ねえ、マキマ」
怪我のことなんだけど、という言葉は、狙いすましたようなタイミングで鳴ったコール音に掻き消された。携帯を起動したマキマは二言三言会話して、端的に通話を切る。
「ごめん、なにか言った?」
「……ううん」
なんでもない、と続けた台詞は、萎縮して尻窄みになってしまう。
入院に至った経緯については『任務中の事故』としか聞かされていなかった。その際負った怪我の内容も、「ショックを受けると悪いから、身体が完治したら教えるね」というマキマの方針で私は事実を知らない。
自分がこうなってしまっている詳細を尋ねようとすると、何故か決まってそれを遮る何かが起こる。鈍感なふりをして疑問を突き通せば、恐らく何かしらの進展があるのだろうが、不思議と心の奥でストップがかかる。こちらからは開けられない扉の奥から、静止を促す声が聞こえる気がするのだ。
そんな曖昧な感覚に従ってしまっているがために、私は今でもマキマに真実を聞くことができていない。
「ほら、折角剥いたんだし食べてよ。蜜たっぷりで美味しいよ」
改めて私に向き直ったマキマが、フォークを刺した林檎を持ち上げる。兎の耳を象った果実の皮の赤色が、やけに鮮やかに見えた。
「……うん」
どうしてこのひとだけを覚えているのだろう。家族でも友人でも恋人でもなく、このひとのことだけを。
肢体に傷のひとつすらないまま、委細を知らないまま、この白い牢の中でひとり。記憶を失う前の私は、一体何をしたのだろう。
差し出された林檎に向かって口を開ける。歯を立てた果肉は、口内で瑞々しく甘い。
ひとつ目を咀嚼している間に、早くもマキマは次の兎にフォークを刺そうと皿に向き直る。
その仕草をぼんやり眺めながら、ふと考えた。
もしこの林檎をひとつ食べ切ったなら、私もすべての記憶を取り戻せないだろうか。さながら、旧約聖書でイヴが知識を得たように。
まあそんな出来過ぎた話なんてないよね、と自問にすぐさま引き下がった訳であるが、二匹目の兎に唇を寄せた瞬間、もうひとつ頭に過ぎったことがあった。
そういえば、古来よりこの罪の果実を相手に食するように促す者は、大抵悪と描かれている。

甘さが匂い立つ水菓子を嚥下しながら、柔和を形作る瞳の渦巻を盗み見た。
ねえマキマ。あなたは本当に私の味方?
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -