取り込んだ洗濯物を抱え、屋敷に戻ったところだった。屋敷の隅にいても認知できるほどの騒がしさが耳に届き、私は周囲に誰もいないのをいいことに思いきり眉根を寄せた。
 那田蜘蛛山での任務後、鬼殺隊の医療機関として機能している蝶屋敷はてんてこまいだった。重傷者が多く、病室に設けられている寝台はほとんど満員だ。だから特定の隊士に構っている暇はないのだが、その患者の中でも一際扱いに困る隊士がいた。一日五回飲むように指示されている薬湯が運ばれてくるたびに大袈裟に拒絶し、台所に勝手に侵入して茶菓子を盗み食い、女性を見かければ一目散に迫り口説くというまさに厄介者だった。
 私はできるだけ関わりたくないので彼の病室には滅多に訪れないのだが、いつも彼を叱り飛ばしてくれるはずのアオイは仕事から手が離せない状況なのかなかなか静かにならない。洗濯物を畳み終えるまでに大人しくならなければ行こうと先延ばしにしていれば、運の悪いことにいつまで経っても声の音量が落ちることはなく、私は渋々彼の病室へ向かうことにした。
「我妻さん、黙ってくれませんか。口に布を詰め込んだほうがいいですか」
 病室の戸を開くや否やそう告げると、我妻さんは怯えたように声を上げて布団に潜り込んだ。その子供じみた行為にも辟易して彼の寝台まで近寄ると、容赦なく布団を引き剥がす。我妻さん、と冷ややかに呼べば彼は肩を大きく跳ねさせ、ちらりとこちらを見上げた。
「私たちも暇じゃないんです。他の隊士の方だって迷惑しています。もっと周りのことを考えられないんですか」
 我妻さんは落ち込んだように眉を下げて俯いた。病室に沈黙がのさばる。それでも私の口は止まらない。
「泣き喚いてばかりで、あなたはそれでも鬼殺隊ですか」
 今しがた自分の放った言葉を反芻し、ぐっと奥歯を噛みしめた。怒りを堪えるための行為ではなく、行くあてのない罪悪感と自己嫌悪をどうにもできずに呑み込んだ先の行為だった。
 多くの犠牲者が出た任務先から生還した我妻さんには、少なからず実力がある。だというのに、その才能を持て余し情けない姿を晒してばかりの彼に苛立ちを覚えた。私が血の滲むような努力をしても辿り着けなかったその場所に立ちながら、楽なほうへ流れようとするその姿勢が気に食わなかった。
 そんな台詞、私が一番言う資格なんてないのに。
 何も言わない我妻さんに背を向け、私は病室を去る。心臓が軋みながら血液を吸い込み押し出す。沸騰するように熱くなることすらない血液だった。いつでも緩やかに当たり前の速さで体内を循環していた。
 剣士でもないのに肉刺で硬くなった手のひらを見つめる。心の底に死灰のようなものが沈殿していき、徐々に息苦しく重くなっていくような気がした。



 風を切るように木刀を何度も振り下ろす。何十回、何百回と素振りを繰り返す。皮膚から浮かび上がる汗が隊服に染み込んで不快だけれど、それでも動きを止めずに柄を握り続ける。いつまでも戦場に復帰する目標を追いかけているのは単なる悪あがきでしかないのかもしれないが、私はどうしても諦められなかった。
「名前ちゃん?」
 思いの外近くから聞こえた声に驚いて、木刀が手の中から滑り落ちてしまった。慌ててそれを拾い上げ振り返ると、やはりそこには我妻さんが立っていた。任務中毒を食らったらしいが、大分回復したようで短かった手足もほとんど元の大きさに戻っていた。
「素振りしてるの? そういえば隊服着てるし、名前ちゃんも隊士だったの?」
「……いえ。最終選別は突破していますが、私は隊士ではありません。鍛錬も、私が勝手にやっているだけです」
 困惑したような顔をする我妻さんを視界から外す。鍛錬しているところを見られてしまったのが恥ずかしかった。厳しい修行を乗り越え正式な命令を受けて任務に赴くような彼に、蝶屋敷で働きながら隙間時間で行うしかない私のお遊びみたいな鍛錬を目撃されたことが屈辱だった。こうして隠れて鍛錬をするしかない状況にある私と彼との埋めようのない差が浮き彫りになって、私は不甲斐なさでいっぱいになった。
「失礼します」
「待ってよ」
 木刀を持って立ち去ろうとすると、我妻さんに手首を掴まれた。私の心臓は怖気付いたように震える。こっそりと鍛錬をしていることが他の隊士にばれてしまったとき、大抵の場合蔑まれるからだ。
「あ……ごめん。ちょっと、名前ちゃんとお話したくて。縁側に行かない?」
 眉尻を下げて笑う我妻さんには、私を貶めようという意図は見えない。小さく頷くと、手首が解放されて彼が先に歩いていく。その後についていき、日の差し込んだ縁側に彼が座ると、私は一人分の間を空けてその隣に腰を下ろした。日光を目一杯浴びた縁側はあたたかく、穏やかな風にそよぐ植木が視覚の表面を撫でていく。
「名前ちゃんは、戦いたいの?」
 我妻さんが口を開いた。こうして彼とまともに話すことは初めてのことだったので、落ち着きを保ちながら私の返答を待っている彼が普段と比較し別人のように見えた。この時点ですでに私は、彼についてちっとも知らないのだろうと悟った。当然だ、知ろうとすらしなかったのだから。さらけ出された側面だけに注目し、あまつさえ横柄な口を叩いて一方的な評価を下した。それも、我執に囚われた嫉心なんか抱いて。
「……端的に言えば、そうです。私の家族を殺した鬼を、この手で殺してやりたい」
 私には剣技の才がなかった。育手のもとで修行して最終選別を通過したが、日輪刀の色が変わることはなく、全集中の呼吸も使えるには使えるものの威力が異様に低かった。最終選別の行われる藤襲山に閉じ込められているような、人を二、三人喰った程度の雑魚鬼を斬るのがせいぜいだった。初任務でともに行動していた先輩に隠の道を勧められたが諦めきれず、向かった次の任務で鬼を倒せず大怪我を負った。蟲柱のしのぶさまが助けてくれなければ、私はそこで死んでいた。
 そのあと私はしのぶさまの屋敷で治療することになった。そして寝台に臥せっていた私に向かって、しのぶさまもあの先輩と同じことを言った。私は激しく反抗した。柱だろうがなんだろうが知ったことではなかった。私の平穏を、幸せを、暴虐を尽くし破壊した鬼を捜し出して痛めつけてやりたかった。今思えば、あのときの私はずいぶん無謀なことを言っていた自覚がある。しかし、しのぶさまはそんな私に蝶屋敷で働くよう提案した。隠とは違い隊士の資格も消失することはないし、機能回復訓練というものがあり病み上がりの隊士の相手をするのである程度は鍛えておかなければならない。そのため鍛錬をする口実ができるし、仕事に支障がない程度なら好きに鍛錬を行なってもよいと、しのぶさまはそう言った。このまま前線で戦い続けるつもりなら近いうちに必ず死ぬと、だからこの条件を呑んでほしいとも。
 私には姉がいた。鬼に喰われてしまったが、心の優しいひとだった。呑気な姉とせっかちな私では性格が合わず、私はよく姉に突っかかっていて、そのたびに姉は楽天的な様子でのんびりと笑っていた。私はその笑顔を見るとあっという間に怒りが収まってしまって、つられて笑みをこぼしてしまうのだ。
 しのぶさまと私の姉は似ても似つかなかったけれど、しのぶさまの微笑みはどこか姉を想起させた。重なる面影は薄くても、私が彼女に心を開くのは早かった。「名前は私に似ているんです」あるとき彼女が言った。彼女にも以前姉がいて、鬼との交戦で亡くなったという。「鬼殺隊を辞めてほしい」と遺言を残して。そこでようやく、彼女の笑顔が本心からのものではなく憎悪を押し込むための仮面でしかないのだと知った。彼女には筋力がなかった。鬼の頸を斬ることができなかった。だから鬼を殺す毒を開発し、独自の方法で柱まで登りつめた。そんな自分と私が似ていると、彼女は言う。彼女は私の姉ではなく、姉の幻影を探す私に似ていたのだった。
「才能がない自分に腹が立つんです。だから鬼殺隊として戦っているあなたに八つ当たりをしてしまいました。強いのに、なんで弱々しい態度をとるんだろうって」
 拳を握りしめる。皮膚の厚くなった手のひらは私が努力を積み上げてきた確かな証だったが、今は分不相応な枷にしか思えなかった。
「……俺だってさ、強いわけじゃないよ。逃げるし泣くし気絶するしさ。地獄みたいな修行だって乗り越えてきたけど、身についてるかわかんないし」
 紛れもない弱音だったけれど、我妻さんはいつになくしずやかに言葉を紡いでいく。私を安心させるために言っているのではなく、ただそこにある事実を述べているだけのような口調だった。
「でも、名前ちゃんの才能はさ、きっと刀を握って鬼を斬ることじゃないんだよ」
 ゆるりと我妻さんの方を見上げても、彼は庭先を見つめたままこちらを振り向くことはない。交わらない彼の視線をもどかしく思ったのは初めてのことだった。
「名前ちゃんは怪我人を治療して、ごはんを作って、機能回復訓練の相手だってしてくれるだろ? 名前ちゃんのおかげでまた戦える人がいるし、俺だってそりゃあ任務に行きたくはないけど助かってる。別に鬼のいる場所に出向かなくても、名前ちゃんには名前ちゃんの戦い方があるから。こうやってこの屋敷に迎え入れてくれることが、俺たちにとっては何ものにも代えがたい安心感になるよ」
 そんなことを面と向かって言われたことはいままで一度もなかった。呆気にとられて我妻さんの横顔をじっと見つめていると、ようやく彼がこちらの方へ首を回して視線が絡まった。やわらかい琥珀色の瞳が光を吸い込んですうっと細められる。
「……我妻さんって、やさしいんですね」
「そうだよ。女の子には優しいの、俺」
 相変わらずな様子の我妻さんについ顔が綻んでしまうと、「あ、笑ったほうがかわいい」という呟きが聞こえたので唇をきゅっと引き結んで緩む表情を抑え込む。
「え、なんで顔戻しちゃうの?」
「我妻さんに指摘されるのはなんだか癪だったので」
「なにそれ!? 名前ちゃんの中で俺どういう扱いなの!?」
 あれだけ不快感を煽っていたはずの我妻さんの喚き声がさっぱり嫌ではなくなっていることに気づき、自分の単純さに内心苦笑する。絆されたわけではないけれど、相手の一部分から想像した印象が全てだと思い込むのは相手に失礼だし、自分の世界までも狭めてしまうに違いないと思い直したのだ。
「あの、我妻さんがよければなんですが……私に稽古をつけてくれませんか?」
 一人で鍛錬するのにも限界があるし、自分より格上の相手が指導してくれれば心強いうえに鍛錬の幅も広がる。私は継子ではないから、ただでさえ多忙なしのぶさまに教えを請うことなどできなかったのだ。それに、我妻さんのことをもっと知りたいと思った。
「え!? 俺人に教えたことなんてないよ?」
「いいんです。それに、我妻さんは今機能回復訓練を怠けてらっしゃいますよね?」
「ヒェッ……だ、だってぇ!」
 わざと低めに告げると、案の定我妻さんが頼りない声を上げるものだから大きくため息を吐く。アオイは厳しいので、訓練場に来ない隊士をわざわざ呼びにいったりしない。機能回復訓練を怠っている間くらい、彼を借りてもいいだろう。
「わ、わかったよ。うまくできる自信はないけど、頑張って名前ちゃんに教えるね」
「はい。よろしくお願いします」
 私が笑いかけると、我妻さんは相好を崩して頷いた。
 剣技が向上すればもちろんそれが良いが、私の知らない彼の一面を発見してみたいという思いが強かった。なおいっそう、彼のやさしさに触れてみたくなった。素直に病室に通うなんてことは気恥ずかしくてできないから、自分の苦悩を口実にあなたの隣を占領することを、どうかもう少しだけ許してほしい。
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