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―キュイ。建て付けが悪くなっているのか、私の寝室の襖は不思議な甲高い音を上げる。
その音にパチリと瞼をあげ、闇に浮かび上がる天井を見つめた。こんな夜遅くに私の部屋の襖が開く。小さな小さな擦れる音を上げて。
侵入者はス、ス、と畳を歩き、枕元へ近付いてくる。私は枕から頭を上げず、目の玉だけ動かした。
闇夜に浮かぶ人の影。灯りを点ける必要はなかった。その者に声をかけるまでもなく、彼が誰なのか何故こんな夜中に私の部屋まで参ったのか。
私はその人影にいつもと変わりない笑みを投げかけ、裏腹に布団の下で拳を握り泣き出しそうな自分に耐えていた。
その侵入者は先日、私の兄と大喧嘩をした。私は大喧嘩と簡単な言葉で片付けようとしたが、彼らはそれを許さない。私がどんなに翻弄されても、二人の距離はもう二度と近付かない。
どちらにも揺るがない意思があった。兄にとっては信念であり、侵入者にとっては人だった。酷い宗教だ。何故折れる事はないの?
侵入者は枕元に腰を下ろし、私を見下ろす。そして「おい」だなんてふてぶてしい態度。夜這うのならば、もっとやさしく紳士に努めて欲しいのに。
私が渇いた喉から「何故きたの」と呟くと、彼の首がク、と傾げた。彼がここへ来た意味、随分前から肌で感じていたよ。それはいつか来る恐怖の日だよと。

「くせ者・・・・」

「であえと叫ぶか?私の足を舐めるな」

今夜は月が出ていない。ああ、だから。やすやすと男を私の寝室まで通した見張りの役立たずな事。しかしそれでいいよ、良かったよ。
兄はあの日を境に私の元を去って云ったよ。時には顔を出してくれるだろうけど、私は彼のただの妹に成り下がったよ。心が離れて仕舞ったよ。
そうして貴方も私から離れようとする。過剰になりすぎる貴方は、あの人が死んだだけで命を削ってしまう。どうしてそんなに心入れするの?あの人は神だったの?

「名前」

彼の、・・・・三成様の輪郭がはっきりと浮かぶ。夜闇に慣れ出した目が、彼の明るい頭髪と青白い肌をやっと捕える。
ああ、顔色が悪い。また食事を蹴ったの?何故そうまでして。それでいいの?死んだ人の為に、私を捨てるの?

「三成様」

彼の冷たい手の平が私の頬をなぞる。ひや、と冷たい。ひや、と悲しむ。
どうせなら、体を触って好きにしてくれればいい。でもそんなの本当に最後みたいで悲しい。約束が欲しい。全てが終わったらまた、穏やかな日々に戻れると。
私は頭の中で自分を殴る。全てが終わったらなんて恐ろしい。きっと兄か彼か、どちらかが消えてしまう。それだけは。

「・・・・もう、元に戻る事は無いのですか」

「断じて無い」

「私からお願いしても?」

「ああ」

感情任せになりやすい彼には珍しく、酷く落ち着いている。淡々とし、静かだ。それは時折感じる冷たい物ではなく、きっとこれが本当の彼なんだと勝手に解釈する。
冷たい彼の指が顎を撫で、首筋を滑る。ああ、どうかそのまま寝間着を割って。めちゃくちゃにして!

「家康の妹・・・貴様も殺してやりたい」

「・・・・え」

喉をごくりと鳴らす。彼は私が死ねば兄がどれだけの罪を犯したか身を持って知るだろうと続けた。
・・・・もう、割れてしまった陶器なのだな。私をとりまく世界は。だったら殺して、貴方にだったら殺されてもいいの。なんて美しい事は言えないし、死にたくない。
不覚にも目の玉に水分が集まり、ふるふると震えてしまう。媚びるつもりはない。しかし溢れる予定の水滴を彼の舌で拭ってもらうつもり。

「しかし貴様だけは殺せない。裏切る者は全て殺そうと決めたのにっ」

「三成様!」

首筋を撫でていた彼の指が離れる。私はその指を追う様に身を起こし、彼の腕を両手で掴んだ。彼が決めた事、わかっている。
しかし、今だけは彼の腕を掴む。追う様に縋る様に。私の事昔から好きだったんでしょ?だったら私のお願いを聞いてよ、なんて。たったひとつの後生を使うから。

「兄上と争わないで!お願い!」

「それは無理な願いだ」

「・・・・じゃあ、今夜が最後などと申さないで!」

彼は一度目を見開き、奥歯をキリリと軋ませた。

「貴様が私の元へ来るのならば」

兄上の顔を描けば、自然に首は横へと振られる。ああ、私の気持ちだけは三成様の元に居るのに。どうして分かってくれないの?
悔しいんだか何だか。彼の腕を掴む手に力が籠る。

「ならば、もう会う事はない」

「どうして」

「毒だ。私にとって」

涙を堪えて唇を食む。小さく震えだした私の手は、彼がサ、と払えばぽろりと落ちた。
布団を挟んだ膝の上に落ちた両手。彼の気持ちは痛いほどに分かるから、私は潔く飲みこまなければならないのだ。
ふう、と震える熱い息を吐きだし、涙の峠を無理矢理越す。しっかりしろと自分の尻を蹴る。

「なら、三成様」

「ん?」

「夜へ這いに来た意味を遂げてください。私を忘れないよう」

「名前・・・・」

鉛の様に重い右腕を上げ、彼の頬を包めば酷く冷たい彼の肌。さすってあげれば温まる?私、今夜は頑張っちゃう。

「これでも時間を割いてきた。もう行かねば」

「どうして?最後なら惜しくはありませんの?」

「酷く、惜しい」

暗い部屋にぽつりと、彼の掠れた低い声が通る。彼が呟く私に向けた言葉はどれも濃い愛の言葉だ。そんな声で惜しいなどと呟かれたら、私の胸はどろどろに溶けてしまう。
昔から忙しそうに邁進して来た彼は、私をあまりかまってくれなかった。だからこそ、目が合うだけでお互いの心は燃えていた。
くすぶる煙を残したまま、断ち切ろうなんて。酷過ぎる。なら責めて、あからさまでもいいから嘘でも吐いてくれれば。最後は優しい人だったって思い出にするのに!

「早くこの場を出たい。貴様は家康そっくりだ」

憎くも愛おしい。そう聞こえて仕舞う私の耳は可笑しい。
いつだったか、三成様は私を娶りたいと言った事があった。それは幼い日の戯言だったけど、私は今でもそれを信じている。

「もう、一緒にはなれないのですか?」

「全てが終われば」

「それは何時?」

「どれ程時間が掛かるかは分からぬ」

「・・・・待ちます!」

「それは、私が家康を殺した時だ」

「・・・・あ、兄上は死にません!」

ガツリ!三成様の手が私の手首を掴んだ。いけない、怒らせた!
大きく跳ねた心臓は余韻を残してバクバク鼓動する。一緒になれるなら何十年経っても待てるけれど、兄上の死の上ならば、頷かけない。

「私と一緒になりたくないのか!?」

「兄上が死ぬのは嫌です!」

「貴様・・・・っ」

手首がぎりぎりと絞られる。痛いと漏らし、ポロリと涙が落ちた。

「私、苦しいくらい貴方の事、好きなのに。何故上手くいかないの?」

「・・・・それは、こっちが聞きたいくらいだ」

頬に流れた涙を、彼の唇が拭った。触れられるだけで心臓がぼうと燃える。全部忘れて求めたくなってしまうよ。なんて苦しいのだろう!
両目を閉じて、大人しく彼の行為を感じる。彼の唇が睫毛を食んだ時、心臓がじゅわりと溶けてもう嫌だと叫んだ。
彼に優しくしてもらったり、何かをしてもらった記憶はない。それでも彼の視線は私を縛りつける。他の人を好きになりたかった!
早くこの苦しみから解放されたい。それはどうすれば?兄上を裏切るの?彼の別れを受け入れるの?

「好きです、好きです、でも兄上は殺さないで」

「名前・・・・」

「うう」

彼の唇が目元から離れ、手首が解放される。ああ、きっと彼に触れてもらえるのはこれが最後なのだと、両手で顔を覆った。

「ならば、約束だ」

「約束?」

「来世だ」

「・・・・・・・・!」

頭の中一杯に、彼への文句が廻る。ささやかな彼の視線や行動に、何度も縛られて動けなかった。彼の棘のある言葉は全て愛の囁きに変換されていた。
・・・・!これ以上無いってくらいに身動き出来なかったのに!

「今でも酷いのに!来世でも、私を縛るのですか?」

「ああ、貴様の身も魂も私の物だ。それは何度生まれ変わっても変わらない」

「何ですか、それ・・・・」

「バカな女だ」

彼は名残惜しそうになんて一つもせず、ス、と立ち上がるとさっさと襖の方へ歩を進めた。え?もう行っちゃうの?と私は膝を立たせる。
もう会えないなら、せめて最後に口くらい吸っても。それが駄目なら抱きしめてくれても!じゃなきゃ心残りが半端無い。呆気なさすぎる!

「三成様!」

「いいか、忘れるな」

「みっ」

彼はゆっくりとこちらへ振り向いた。口元には小さな笑みが浮かんでいる。私はへなへなペタリと尻を付けた。
三成様は静かに襖を開けると今度は振り向きもせず、後ろ手に襖を閉めた。建て付けの悪い襖は、キュイと小さく鳴いた。

「酷い」

酷いよ酷過ぎる。彼から何一つ逃げられない。死ぬまで彼の事が心に残るだろう。将来の旦那様に申し訳ない。いつか終わる恋ならばよかったのに。
いつか一緒になろうって、それが来世でなんて。何十年後でもおばあちゃんになってからでも、私構わないのに。どうしてそんな気の遠くなる様な先の事を約束するのだろう。

「タチ、わるいなあ・・・・」

ほんと、タチ悪いよね。
110206