novel | ナノ

どうして、と尋ねた私に、マツバさんはにっこりと、とてもきれいに笑う。


「いつだったかなまえちゃんから、海を見たいって聞いた気がするんだけど…気のせいだったかな?」


すこし首をかしげてはいるけど、マツバさんのやわらかな表情は確信に満ちていて、そしてそれはたしかに、嘘じゃない。

あんなはしっこの会話、覚えててくれたんだ、マツバさん…。それがすごくうれしくて、私は気恥ずかしさで混乱しはじめる。


「ち、ちょっと待っててください、こんな服じゃ出かけられないので着替えて来ます」
「着替えるの?そのままでも十分可愛いと思うけど」
「か……っ!!?」


ななななんてことを真顔で言うのだろうこの人は。それとも美形のジムリーダーっていうものはこれくらいのこと、言い慣れてるものなの?

とにかくマツバさんが言い慣れていようがいまいが、私はまったく言われ慣れてないからあからさまに動揺してしまった。

この前なりゆきで家まで送って来てくれただけのマツバさんがまた来てくれるなんて、ただでさえ思ってなかったのに、さらにアサギシティまで連れてってくれるなんて、って思ってたから…ああもう、わけのわからない焦燥感で頭のなかも感情もぐちゃぐちゃ。


「大丈夫、なまえちゃん?顔が真っ赤だよ」
「だっ、大丈夫です、ぜんぜん」


マツバさんはまた優しく笑って、待ってるから着替えておいで、と付け足した。

今までにない速さで、悩んでる暇なんかなかったけどまだましな服を選んで着替えて、ポケギアとお財布とモンスターボールをバッグにいれて、マツバさんの待つ玄関に戻る。

マツバさんはポケギアをかちかちいじってて、どうやらラジオを聞いてたみたいだけど、私が戻ってきたのに気づくとイヤホンを外す。


「行こうか」
「はい!」


マツバさんの後を追って、私も外に出た。 アサギシティにつづく西側のゲートを出たのは、じつはこれが初めてだった。

私はスバメしか持ってないし、あの子を戦わせてるわけじゃないからちゃんとしたトレーナーでもない。

だからあちこち旅したりする趣味はなくて、エンジュシティから出るとしたら、たまにコガネシティに行く程度だった。エンジュシティは大きな町だから、出なくても不自由することはなかったし。


「…行く途中にね、牧場があるんだよ」
「牧場、ですか?」
「うん、ミルタンクがたくさん放牧されてるんだ」
「…ミルタンク…あの、モーモーミルクの?」
「そう、モーモーミルクの」


私のことばを繰り返して小さく笑うマツバさんの、金色の髪がまぶしい。もう夕方近いけど、今日も空はいい天気で、太陽は少しずつ色を変えはじめてる。


「…もしかしたら、ちょうど日没が見えるかもしれないね」
「本当ですか!?」
「きっとだけどね。なまえちゃん、雨は嫌いだって言ってたけど、海はすきなんだ?」
「すきというか…見てみたかったんです」


ゆっくり歩くふたつの影が黒々と並んでて、マツバさんの影はやっぱり私よりもずっと長い。

気が付いたら風が強くなっていて、なんだか何かが塩からいような…と思ったときには、私は豪勢な港町に着いていた。バタバタと頭上で、たくさんの旗がはためいてる。


「あ」
「え…?」
「もう日没だ」


見るとでもなくそれを見上げていたら、案内するように前を歩いてたマツバさんが突然、声を上げる。

なにごとかと目を前に戻したのと、振り返ったマツバさんが私の手を取るのが、ほぼ同時だった。びっくりする間もないくらい。


「急ごう。走れる?」


声を失ったみたいにただこくこくとうなずく私にほほえんで、マツバさんは走りだす。
オレンジ色で浸されたみたいなにぎやかな港町で、道行くひとというひとが、手をつないだまま走る私とマツバさんを振り返る。

きっと、マツバさんが有名だから。前をさらさらと流れる金髪がオレンジ色になっていて、それがきらりと光るのがきれいだから。

でも、しっかりつかんでくれてる手があったかいとか、走ってはいても私のペースに合わせてくれるのがやさしいとか。マツバさんは有名かもしれないけど、そういうのは今、私だけが感じてる。


「…間に合ったね」


マツバさんの言うとおり、今まさに沈もうとする真っ赤な夕陽が、はじめて見る赤く光る海がきれいで、私はうなずいた。

手をつないだまま、かけっこをした子どもみたいに息を切らしてた私を見て、またマツバさんはほほえむ。

灯台が、明かりをともした。



(心音がはやいのはきっと)(走ったからじゃない)

Thanks;逃飛行

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