novel | ナノ

さ、寒い…今日ってこんなに寒い予想出てたっけ…。

冷たくなった指先には熱すぎるマグカップを、私はすこし顔をしかめながら持ちなおす。中身のミルクココアは、ゆらゆらと白い湯気をたえまなく発していた。

もう夜も遅いから世界はしーんと静まり返っている。私はベランダにこっそり持ちだした小さな椅子に座って、結晶のかけらみたいにきらきら光る空を見上げていた。

こんな夜更かしして、きっとお母さんに見つかったら大目玉だけど、今日だけは譲れない。

熱いマグカップに口をつけてふぅっと吹いたら、湯気はくるくると勢いよく渦巻いた。


「……あれ、なまえ?」


突然名前を呼ばれてびっくりして振り向いたら、明るい星の光のおかげで、隣の家の屋根に座ったユウキくんが目に入った。


「ユウキくん!こんばんは」
「何してんの?」
「しぃっ。もうちょっとボリューム下げて」


夜遅いのに平然とした声で話しかけてくるユウキくんにあわてて指を立て、そこでようやく気がついた。もっともな疑問に。


「…あれ。ユウキくん、なんで屋根のうえにいるの?」
「なんでって…こっちのほうが見やすいからだけど」
「見やすいって…星が?」
「そうだよ」


ほら、あれ。そう言って、ユウキくんは片手でまっすぐに上を指差す。その先を見ようとして思わず立ち上がったら、またゆらりと湯気が流れた。


「…見えるか?」
「どれ?」
「真上の、いちばん明るい赤」


真上。ベランダの丈夫な柵から身を乗り出してた私が思わずユウキくんに視線を戻したら、ユウキくんはいたずらが成功した子どもみたいに笑った。


「見えるわけないじゃん、屋根があるんだから」
「でもわかっただろ。ベランダだと限界があるってこと」


そんなの、ユウキくんに言われなくても知ってた。いっそのこと屋根裏部屋があって、そこに窓がついてたらよかったのにって何度も思ったくらい。


「…ユウキくんちには、屋根裏部屋があるの?」
「屋根裏?なんで」
「だって、そこから出たんでしょ?」


そうでもしないと、屋根に乗るなんてできない。まさかユウキくんはキモリでした、とかなわけないし。

ユウキくんは私の質問にきょとんとする。


「屋根裏はあるけど…べつにそんなものなくたって屋根くらい乗れるよ」
「うそ。どうやって?」
「こいつで」


思いがけないことばにびっくりして思わず勢い込んで聞いたら、ユウキくんは腰につけていたボールをひとつ、宙に放った。私の位置からは一瞬だけ、星のなかに浮いたように見える。

元気良く出てきたオオスバメがひゅんっと家のまわりを一周して、ユウキくんの隣にとまった。オオスバメは鳥目じゃないみたいに夜間飛行が上手い。

オオスバメからユウキくんに目を戻したら、ユウキくんはもう空を見上げていた。だけど、きっとユウキくんが見つめてるいちばん明るい星は、相変わらず私には見えないまま。


「…きれい?」
「何が?」
「いちばん明るい星」


まだまだ熱いマグカップをことりと椅子に置いて、ユウキくんちにいちばん近い、端っこの柵を握りしめた。マグカップと真逆で、指先はすこし暖まってたから余計に冷たくて仕方ない。

星空を見てたユウキくんはまたこっちを向いてくれて、


「…なまえも来るか?」
「え…どこに?」
「特等席」


そう言ってぽんっとたたいたのは、私の家の屋根じゃなくてユウキくんちの屋根…というよりも。


「…いっ」
「?」
「行きたい!」


思わずまっすぐに片手をあげて答えた私に、ユウキくんはびっくりしたような間をあけたあと、おかしそうに笑う。


「そんな大声でなくても聞こえるって。ボリューム下げないといけないんだろ?」
「…あ」
「面白いやつだよな、お前って」


笑み交じりでオオスバメに指示を出してくれるユウキくんは、きっと私がどうして星を見たかったかなんて、どうしてあったかいココアを見捨てられるのかなんて、知らないんだろうな。



(ユウキくん、あれって)(あぁうん、火星だろうな)(……)

Thanks;逃避行

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