novel | ナノ

苦しい。苦しい。助けて…!

重苦しい水の青につぶされるような感覚が一気に遠退いた私は、引き上げられたとたんに、またしても苦しみに襲われた。

たてつづく咳は気持ちが悪くなるほどの強さで、肺が空気を求めるのと同時に、私はたくさんの水を吐く。

その尋常じゃない量に恐怖を覚えたとき、ようやく戻ってきた感覚が、優しく、しきりに背をたたいてくれる手を私に伝えた。


「…大丈夫だよ。君の身体は生きようとしてるだけだから」


しきりに繰り返される「大丈夫」や「がんばれ」に、少しだけ気持ちが落ち着いてくる。


「…よし。もう大丈夫だね」


しばらくして、ようやく私の咳が止まったとき、初めて彼と目を合わせた。目を疑ったのは、ドラマじゃあるまいし、こんなうまい話があるわけない、と思ったから。

私は、つくりものみたいにきれいな男の人に、助けられたんだ。







「なまえちゃん、こんにちは」


また、来た…。私はうんざりした気持ちでその人、ダイゴさんを見る。完璧に整った顔立ちに、映える目と髪の色。髪が人を平等につくるなんてうそだと思ってしまうほど、恵まれたひと。

顔は向けないと失礼だから振り向いたけど、下校途中の足は止めない。ダイゴさんはそれに、いたって当然な顔をしてとなりに並んだ。


「……今日は、何のご用ですか」
「ご用も何も。会いたいと思っただけだよ」


まるで恋人気取りのその人に、私はまた、何度目かのため息をつく。立派な社会人が、ちびだしまだまだ子供の私なんかに、毎日こんな具合にやってくる。

ばかみたいだ。彼に「偶然」助けられたってだけでも漫画とかロマンス小説みたいで、できすぎてて気持ち悪いっていうのに、さらにこの展開、もう、いい加減にしてほしい。


「からかわないでくださいって、何度も言ってますよね」
「だからからかってなんかないって、何度も言ってるよ?」
「それもからかいの一種ですよ」
「相変わらず、ガードが固いね」


困ったように笑うダイゴさんに、泣きたくなるのを必死で噛み殺す。あなたがおかしいんです、と口走りそうになった。そんなことばが甘えてるみたいになりそうで、とても怖い。

家まであと10メートルほどになった。ダイゴさんはいつもこのへんで諦めて帰っていき、明日、またやってくる。社会人なはずなのに、土日ではなく平日に、必ずやってくるんだ。

だけどダイゴさんはなかなか立ち止まろうとはしない。家まであと5メートル……あれ…?

さすがに家まで来られると困る、と思って、仕方なく足を止めようとしたときだった。


「つれないな、なまえちゃん。キスまでした仲じゃないか」


ぴたり、と、私の足も、ダイゴさんの足も止まった。ことばが理解できなくて、私はばかみたいにダイゴさんを見上げる。ダイゴさんはそんな視線を受け止めて、また、ふわりと笑った。

いつどこでだれがだれと、キス…?


「ほら、覚えてない?呼吸を失ったきみに、僕は酸素を届けただろう?」
「……」


覚えてる。身体は酸素を得ようと必死で、冷たくなったくちびるに、熱いと思えるくらいのやわらかい……


「なまえちゃん…?」


フリーズした思考回路に、ダイゴさんの声が響く。ものすごい勢いで、頭に血が上るのを自覚したとき、私は逃げ出していた。


「人工呼吸はノーカンですっ!!」


家に飛び込んで、ドアを勢い良く閉め、鍵をかける。ダイゴさんは追ってこなかったけど、何事かと、さいばしを持ったままキッチンから飛んできたお母さんに、私はぶんぶんと勢いよく首を振るしかなかった。

ダイゴさんは常識がないって、初めて知った。もう、顔を会わせる自信がない。そう思ってもどうせ明日も、私の命の恩人は、あの場所に来るんだろうけど。





(ねぇミクリ、人工呼吸がノーカウントってどういうことなのかな)(ダイゴ…まだ本気だと思ってもらえてないのか…)
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