novel | ナノ

ふわりとやわらかいバニラの匂いが鼻腔をくすぐり、私を軽い陶酔から揺り起こすようにいざなった。導かれるまま顔をあげれば、いつの間にか空は衣装がえをしたようで、サンヨウの穏やかな公園はまどろみに落ちようとしていた。

珍しいことに、あたりにひと気はないみたい。家で鬱々としているよりはと思って、ベンチに座って昨日のことを考えていたはずなのに、すっかり居眠りをしてしまったらしくて……だれに見られていたわけでもないのに恥ずかしい。念のためと膝のうえで開いたままだった古い装丁の本をかかえて、あわててその場を離れようとしたとき、だった。

ふわりと、また、やさしくてあまったるい香り。

ベンチから一歩を踏みだしたところで、私は歩みを進められなくなってしまった。目覚めぎわに感じた香りはやっぱりうつつのものだったらしい、そうわかっただけで知らずわき上がるこの鼓動はなぜなのか。まるで花の蜜をもとめるように香りの源をさがして首をめぐらせるのだけど、やっぱりここにひと気はなくて、かといって香りのもとになりそうなものもなく、ただちゃぷちゃぷと心地のよいリズムを刻む噴水が見返してくるだけ。ふと襲いかかってきた静けさはおそろしく、私は逃げるようにむりやりに、重い一歩を踏みだして公園をあとにした。



「ヒヤップ、どこに行くんだ」


買い出しの帰り道、パートナーが走りだしたのは突然だった。季節的にもぴったりなほど見事な色がサンヨウを包みこみ、どこかでだれかが夕焼け小焼けを口ずさんでいるのが聞こえる。デントがここにいても同じような行動をとるのだろうと気が緩んだときだったから、どうにも気持ちが追いつかずにタイミングを逃してしまった。

ヒヤップとはもちろん、ベストパートナーとしていっしょに生きてきた。長年なんてものじゃない。それこそ僕の物ごころがついて、ヒヤップがタマゴの殻を破るその時からずっと、何をするのも共にした仲だ。だから油断していたのかもしれない。

両手に小麦粉5キロずつ、無塩バターが5キロ。卵に牛乳、バニラエッセンス。いくらソムリエは肉体労働だといっても、これはさすがにだれにしたって重いだろう。明日、とつぜん入った予約のためだから仕方ないとはいえ、普段ならこんなに重たい買い出しをすることなどないのだからため息を吐くくらいはゆるしてほしい。店をもつこと、ジムリーダーになることは僕ら三つ子のそろった夢で、それまではもともと一度だって趣味があったためしのなかった僕らは互いにおどろいたものだ。そう、この仕事に不満などあるわけがない。ただ、今回にかぎって予定外だっただけなのだから。

そういうわけで、できる限りの最短ルートをたどって僕らはサンヨウまで帰ってきた。お店まではあとすこし、ようやっとの思いでちぎれそうな指を励ましてきたというのに、ここまできて寄り道をえらんだ我がパートナーに自然とため息がこぼれてしまうのはお許し願いたいところ。どこに行くのかと二度たずねているにも関わらず、ヒヤップはこちらをふり返りもせずに一目散に公園の方へ走っていってしまった。一瞬だけためらって、結局僕は重たい荷物をかかえなおしてそのあとを追う。



気分はどんぞこだった。今朝、テレビをつける時間もないほど大寝坊をしてしまったから見ていないけれど、きっと私のホロスコープはさいあくなんだろうと想像がついてしまうほど。昨日はそれといって大きな失態をおかしたわけじゃないし――もちろん、いつもの通りちいさなミスはいくつか作ってしまったけれど、今日はせっかくの休日なんだから忘れるべきだ。それほどちっぽけなものだった。

そこなし穴じゃなかったんだから落ちる必要なんてなにひとつない。いつもなら笑って前向きになれるのに、今日はどうしてもまっすぐ前を向けるような気分じゃなくて、それどころかむしろ奥の方、どろっとした日常の海に沈んでいくみたい。息継ぎができないほど深くまでひきずりこまれて……、くるしい。

だれもいない公園に吹く生ぬるい風に鳥肌をたてながら、私はうつむいて一心に出口をめざした。


「……あ」


ある程度ちかづいてから、出入り口にありがちのちいさな鉄棒につかまっていたちいさなポケモンに気がついたのと、その子がくるんと逆上がりをしてパイプのうえに座ったのはほとんど同時か、あるいは私の方がすこし早かった。きれいな青い毛並みをした姿には見覚えがあって、私はちいさく息を呑む。

温めすぎたチョコペンで書いたようなつぶやきを拾って、ヒヤップはやっぷ、とやさしく返事をしてくれた。ふわりとただようのはあの虫歯になりそうなほどあまい香り。

こわいほど知覚の一点を呼びさます、バニラエッセンスの……。


「コーン、くん」
「……どうして……、あなたが、ここに」


ざわ、ざわとひどく風にあおられた木々が鳴る。つよい日差しの色はお気に召さなかったのか、グラデーションがかった配色をとっかえひっかえしている空を覆うほどにふくれあがったそれは怒りをあらわにしている。ヒヤップの後ろから現れて、見ひらかれたコーンくんの海色が、いつもは見えないのにこんなときに限って両目が、まっすぐに私の心臓を射抜いているのがわかる。

耐えきれなくなって、目をそらした。



なまえが目をそらした瞬間、僕のかなしばりはおどろくほど簡単にとけた。なまえの純粋なおどろきに満ちたひとみが、このコーンを硬直状態に陥れたのだ。

はるか頭上で強風にあおられた木の葉がひきちぎられ、吹き飛んでいく。そらされたが故に解放されたはずなのに、僕を映さないそのひとみが気に入らなくて、抗いがたい激情に突き動かされるまま、僕はなまえの手首を乱暴につかむ。はっと息をとめる音と同時にこちらを仰ぎ見る、怯えと期待の読みとれるようすにどうしようもなく満たされるのを、自覚しない僕ではなかった。

けれど直ぐにそらされたそのひとみに、耐えがたい苛立ちがくちびるの端からこぼれでてしまう。


「どうして目をそらすんですか」
「ごめん、なさい」
「……意味がわかりません」
「ちがうの、ただ……。いまは、会いたくなかった」


絞りだされるように吐きだされた声がふるえていて、そこで僕は自らのエゴにとらわれていた自分を取りもどした。柵をちいさな遊具に見たて、こちらに気を遣ってかひとり戯れていたヒヤップが、ふと悲しそうになまえに寄っていく。彼はコーンに似て聡く、コーンに似ずすなおに感情をしめす子だということを僕はもうとっくに知っていた。

そして、なまえがほかの兄弟たちにからかわれるくらい、コーンに似てとても意地っ張りだということも。


「……そうですか」


思ったより冷静な声が出せて、内心ほっとした……なんて、こんなことなまえにはぜったいに言えませんが。今なおかすかに震えているなまえの手をつかむために、すべての荷を負うことになった片手がそろそろ悲鳴をあげている。



コーンくんの声はとても静かで、ただでさえ人っ子ひとりいない公園の空気をひそやかに、凪いだ水面におちるひとしずくのように揺らした。日の暮れるのが遅いせいで、まだあたりはずいぶんと明るい。

会いたくないなんて、嘘だった。否、嘘じゃなかった。会いたくなかったらわざわざサンヨウまで足を運んだりしない。明日もヒウンシティのつめたいビルのなかで、たくさんの書類が私を待っているというのに。けれど会ったりしたら、コーンくんにやつあたりしてしまうことがわかっていたから……ああ、でももう遅い。実際、私はこうしてだいきらいな自分をコーンくんにさらけだしてしまっている。

つかまれた手首が燃えるようだった。恐怖と羞恥と、隠しきれないうれしさとでどくどくと連打する静脈を、コーンくんは感じているにちがいない。


「なまえ、とにかく座りましょう。話はそれからだ。このままではコーンは左腕ばかり筋肉質になってしまいますし」
「……筋肉質?」
「買い出しの帰りなんだよ」


言われてはじめて、コーンくんが重そうな紙袋やらビニール袋をすべて片手で持っていることに気がついた。あわてて手伝おうとする私の手をつかんだまま導いて、コーンくんはそっと傍らのベンチに座らせてくれる。

いちいち紳士的でうやうやしいこの青い髪の恋人を、私はどれほどしあわせにできているだろう。私のとなりに荷物だけを下ろしたコーンくんははたして、腰を下ろそうとはしなかった。


「……ごめん」
「何にたいしての謝罪? とにかく謝るそのくせをやめてほしいと、コーンは何度もお願いしているはずです」
「ごめ……じゃない、うん」
「まったく」


コーンくんのあきれたようなため息はひどく応える。私もコーンくんも、大抵のひとにすなおじゃないとからかわれて笑われるタイプの人間だった。占いでも、相性からいっても、どう考えたってひねくれ者にはすなおで積極的なひとがぴったりなはずだ。そういう意味では私たちはとても相性がいいとはいえなくて。

じりじりと焦げつくような視線が、私のつむじを焼いている。ちゃぷちゃぷと楽しげな噴水の音さえ、いまは修羅場のような私たちをあざ笑っているようで。

しばらくのあいだ、長い沈黙が続いた。言わなければならないことがいくつも喉まででかかって、そこで溶けて、固まってひとつのあめ玉になり食道をつたって転がりおちていく。言わなくちゃ、言わなくちゃと焦るほど熱くとけていくそれにどうしたらいいか分からない。くり返しているうちに、焦れたようなコーンがとつぜん、動いた。

見つめていたさきの黒い、ぴかぴかのローファーが動いて、そこにコーンくんのはっとするほど整った顔が降りてくる。

染色された脳内はまるで役にたたなくて、跪いたコーンくんにどこかの王子さまみたいだなんて見当はずれの感想を導きだす。あたりまえだけどコーンくんは怒っていて、王子さまらしからぬ、ぎゅっと眉間にしわをよせてこちらを睨んでいるのに。


「なぜ、すなおにならないんです」
「そっ……! そんなこと、コーンくんに言われたくない!」
「ええ、僕も到底すなおなんかじゃありませんよ。でも、あなたが甘えてくれたら受けとめるだけのすなおさならきちんと用意があります。……なのに、あなたときたら!」
「そんなこと言ったって無茶だよ! 私、あまえられるほどかわいい子じゃない……!」


だれが想像できたのだろう? だれもいないのをいいことに、そしてめずらしく声をあらげたコーンくんにつられて、こころの水底に沈めたはずの深層心理がいとも簡単に浮かびあがってしまうなんて。

はっとコーンくんが息をのんだ音が、私の心臓と思考を停止させた。

私、いま、何て……? かっと頬に血があつまった。


「……そんなことを、気にしていたの?」
「そんなことって。私にとっては重要な問題だよ」
「そうじゃなくて。重要に考えるひつようなんかないって言ってるんだよ」
「どういう意味……」


ぽつりと、呆然とした表情で飛ばしてきたことばのボールを受けて、私はいたたまれなくて目をそらす。羞恥でどうにかなってしまいそう。逃げたいところだけど、座ったベンチのまえにはコーンくんが跪いているから立つことができない。

必死の思いで投げ返したことばのボールをいとも簡単にさらりと投げ返されて、受けとり損ねた私は絶句するしかなかった。ことば途中でとりあげられた右手首、急いて打ちつけて鳴りやまないその場所に、コーンくんはやっぱりうやうやしく口づけを落としてきたから。


「恋人にするひとをかわいくないと思う男がいると思いますか?」
「……かっこつけ」
「なんとでも」


そのくせ、つんとそっぽを向いた頬にすこし朱が差していたのはぜったい、私の気のせいなんかじゃなかった。
120605
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