novel | ナノ

「こんにちは、ラムダさん」
「……嬢ちゃん、あんたまた来たのか」


工事現場のおじさんよろしく、開いた膝を折って座っていたラムダさんは私を見あげてちょっと呆れたような顔をする。チョウジタウンからいかりのみずうみに向かうなら大抵の人は避けてとおる、草木の生い茂った道の隅っこには当然ながらひと気なんかなくて、静まりかえった森はざわざわと、聞きようによっては不穏な音を立てていた。


「そんなあからさまに嫌そうにしなくてもいいじゃないですか。それに私は嬢ちゃんじゃありません」
「自分でそう言い張るうちはいつまでたっても嬢ちゃんだぜ」


そういうこと言うからラムダさんはおじさんなんですよ、と言おうとしてやめた。どうせ開き直られるに決まっている。

黄昏色に染まる空気を吸い、そっと吐きだす。ラムダさんは私がことばに詰まったのをみとめて意地悪そうににやりとくちびるの端をあげた。私にとっての世界が変わったあの日を示唆するようなその表情に、知らず鼓動が呼応する。悔しくて顔を背けたのだけど、それはかえって逆効果だったみたい。

タイミングがいいのか悪いのか。がさりと案外ちかくで声をあげた草むらに、思わずびくりと怯えた肩をばっちり見られてしまったのは、明らかに私が顔を背けた瞬間だったからで。

途端あきれたような光をうかべたラムダさんはため息をついた。


「それで、怖がり屋な嬢ちゃんがいったい何をしにきた?」
「怖がってなんかいませんってば」
「あー、はいはい。めんどくせぇやつだな」


とにかくおれは、おまえがここに来た目的を聞いてるんだよ。

私は嬢ちゃん呼びじゃなくなったのがうれしくて、思わず緩む頬のままラムダさんのとなりに合わせるようにしゃがみ込む。予測できなかったのか、ちいさくうおっ、と声をあげたラムダさんを仕返しとばかりに笑ってやれば、今度は苦々しい渋面をつくる。こんな風にころころと変わる表情を見ていられるうれしさったらなくて、私はまた笑った。

いかりのみずうみに行くつもりが、道を誤って変なところに出てしまった。焦って同じところをぐるぐるまわってしまい、どんどん日は暮れてくるし不安で仕方なかったあの日、私はこのひと、ラムダさんに出会ったのだ。

今ではすっかりおなじみになったけれど、初対面はもっと怯えていたのを覚えている。ひと気の全くないのももちろん恐怖を育てる材料にはじゅうぶんなり得るけれど、人っこひとりいない道端にとつぜんひとが現れるのもまた、同格かそれ以上に怖いものだった。だからラムダさんの私に対する第一印象があまりよろしくないものであるのは当たり前で、逆の意味では私からしてみたって、もう二度とこのひとにはお会いしたくなかった。

それがいつのまにこうなったんだか。


「ひとの顔見て笑うなよ。失礼なやつだな」
「だってラムダさん、おかしいんですもん」
「おれが、おかしい? おかしいのはおまえだろうが」
「違いますよ、おかしいっていうのは変って意味じゃなくて、面白いって意味で」
「は。生憎おれさまはあたまがおかしいって意味のおかしいしか知らねえんだよ」
「ちょっ、それって私のあたまがおかしいってことですか!」
「おー、世間知らずの嬢ちゃんにしちゃあ、よくわかったな」
「ひど……!」


あまりの言われように絶句してしまったけれど、いつになく楽しそうなラムダさんを見ていたらなんだかどうでもいい気がしてくる。

私たちは互いを知らない。出自も、職業も、年齢ですら推定でしかない。名前だって本名の証拠などない。こんな時間にこんなところにいる人なんて、もしかしたら危ないひとなのかもしれない。それでも私にとってのラムダさんはここにいて文字どおり迷子だった私を助けてくれたひとであり、いつもこの時間にここで煙草を吸っているおじさんであり、いまこの瞬間に私のとなりで笑っているこのひとで、むしろそれ以外の根拠はすべて無意味なものだった。

温かく心地のいい音が全身をめぐり、夕闇にさらされた指先すらちっとも冷えない。となりでぐんにゃり曲がった背中は思っていたよりもずっと広くて、紫色の襟足からあわてて目をそらした。触れるほど近かった肩がぐんと離れていき、立ちあがったラムダさんは丸まった背骨を引っぱるように伸びをする。

星の散りはじめた空はまるで、伸ばされた手を避けているようで。


「さぁて。もうひと踏んばりってところか……」
「……残業ですか?」
「ま、似たようなもんよ」


追うように立ちあがれば、思っていたよりもずいぶん高位に位置する頭部がこちらをふり返る。図らずも私のくちびるからちいさく息が漏れた。

知ってか知らずか、もしかしたら確信犯かもしれない。ラムダさんは表情を取り繕ったり、人の感情の動きを読んだりだとか得意そうに見えるから、もしかしたら私のきもちだってばればれなのかもしれない。

私たちは互いを知らない。それは事実だけれど、真実ではなかった。


「ってわけだからな、お嬢ちゃんはもう帰りな」
「だから、お嬢ちゃんじゃありませんってば。だいたい私、ラムダさんにそう言われるほど子どもな年齢じゃありません」


あなたほど大人でもありませんけど。あえて付け足さなかったことばを喉のおくに溶かしたのは、ふと思いついたようにこちらを見下ろしたひとみが見たこともないほど深い色をしていたからで。

もしこれがラムダさんの態となら、私はまんまとそのなかにはまってしまっている。いちど会話が途切れてしまえば、私たち以外にひと気のない周囲は水を打ったように静かだった。かすかに火の爆ぜるような音が、まっすぐに落ちてくるひとみの奥から聞こえたのは気のせいなのか、期待の見せたまぼろしなのか。


「……本当にガキだったら、そもそも相手になんかしてねえよ」

こっそりびーちゃんに捧げます。
お誕生日おめでとう!
120502
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