起きる。朝食をとる。身支度をととのえて、仕事をする。外では太陽がまぶしいほどきらめきをみせつけているのに、私はひかりをはね返す無機質なビルのなかで、そしてあのひとはきっと地下にひろがる薄闇のなかで、毎日毎日おなじことを、じわじわと目に見えもしないくせにつみ重ねる。 そうしてたくさんの人生を費やしてできあがった功績は結局、私ひとりのものではない。 まるで働きバチですね。この間、皮肉をくちびるいっぱいに滴らせてそうのたもうたあのひとは、今日も変わらずうす暗いカウンターの隅っこで猫のようにひとみを光らせていた。 「……こんばんは」 「ああ、あなたですか。まさかまだここへいらっしゃるとは思いませんでしたよ」 「めずらしいですね、驚いてくださったんですか?」 「そう見えるのなら、あなたの目は節穴どころかただの飾りということでしょうね。予想通りではありますが」 肘をつき、片手でグラスの口を持った彼はこちらをふり向きもせず、からんと耳に涼しげな音を立てる。勝手にとなりに腰かけて、自分のグラスをかたむけ一息つくと、かすかな気流からゆるりと煙草の香がした。きっちり切りそろえられたエメラルドの髪はたしか、その匂いを嫌っていたと記憶していたのに。 決して煩くはない、けれど静かでもないひしめくバーに、唸るような低音がざわめいている。いつもの鋭利なキレがない皮肉を、私はいつもの顔をして受けとめた。 「……お疲れですか」 「いいえ」 めずらしく即答したランスさんのひとみはずっと、突っ伏すようにあたまを下げ、おなじ高さまで持ちあげられたグラスに向けられたまま反らされることはないようで。 それ以降ランスさんは口をひらこうとはしなくて、代わりにと私はもう一度とうめいなグラスの中身でくちびるをしめした。ぴりりとのどが焼けつくような痛みを訴える。どこが美味しいんだかちっともわからないのになぜ求めてしまうの。 「……私、働きバチになれたらって考えるんです」 ぴくり、と氷のようだったとなりの肩がゆれたのに気づかないふりをして、今度は私がランスさんのまねをしてみる。カウンターの向こう、遠くにならぶボトルを射す白熱球にきらめくそれはたしかに惹きよせられてしまうほどの魅力を持っていて見入ってしまいそうになった。 「あなたに言われてからずっと考えてました」 「……それで」 「え?」 「それであなたはどう思ったんです。日が昇って沈むまでひたすらに蜜を集め、あわれにもスズメバチに喰い殺される。ろくなことがないでしょう?」 吐き捨てるような冷たい声は、私に放たれはすれども私に向けられたものではないようだった。投げつけるように氷の弓矢を受け渡したのはたぶん彼の意志ではないのだろう。グラスを置き、肘つきで組んだ腕に額をあずけたランスさんからはもう特徴のあるきつい香りしかしなかった。 私にとって、ごちゃごちゃした路地裏の隠れ家みたいなカクテルバーとこのひとはほとんど、イコール関係にあった。当時、受け持っていたおおきな仕事のプレッシャーでずたぼろになった心身がさまよい込んだあの日からすでにランスさんはここに座っていて。はじめはひとり酒のつもりだったけれど、混んでいたからとなりになった。ただそれだけの縁だったのだ、本来は。 いつのまにこうなったのか、薄闇にまどろんでいたから分からない。劇的なターニングポイントがあれば、いっそのこと説明は楽だったのかもしれなかった。 「しあわせだと思います」 「……は」 「やることが……存在意義があることはしあわせですよ。蜜をあつめて、仲間のために戦って。少なくともいまの私なんかよりよっぽど充実してます」 長いこと留まりすぎたのかもしれなかった。清流でない日々はよどみ、暗く汚れていくから、清風にちいさな薄い羽をふるわせるミツバチがうらやましくすらあって。角度の問題からかよわくなったグラスの向こうが寂しくて、光を調節するように傾けてみるとまた、からんとつめたい音がした。 表情はみえなくても、ランスさんが鼻で笑ったのが感じられる。カウンター越し、ナチュラルにこちらを注視したマスターに注文を伝える声色の方が、すぐとなりで交わされるものよりも幾分かぬくもりを持っているように聞こえた。 「『仲間のために』? ……相変わらず、甘いですね」 「どうして?」 「申しわけありませんが、愚問に答える暇も義理も、私にはありませんので」 「……申し訳ないなんて、思ってもいないくせに」 「おや、あなたにしては珍しい。きちんと脳みそはまわっているようですね」 あなたこそ、さっきよりは回線がつながってきたみたいね? 言ってやりたかったけど、めずらしくアルコールに浸されたこのひとの思考を覚ましたくはなくて、だから結局私はくちをつぐむのだ。言い負かしたと思ったのか、ようやくグラスからふり向いた先のくちびるは不自然にゆがんでつり上がっていた。美しい造作は曲げても秀でていて、私の心臓はくやしさなんかそっちのけでまたかすかに波打つ。 助け合うこと、互いを思いやることに意味がないのなら、私は、あなたはなんのために働いているというんだろう。そんなこと言おうものならまた鼻で笑われるか、ぜったいれいどの響きで突き離されるんだろうけれど。 私が、ランスさんはロケット団に所属していると知ったわけは、あいまいなこの関係を示すよりよっぽどシンプルで、言うなれば何を隠そう本人がそう教えてくれたからだ。けれどもそこにもうひとつわけを見つけようとすると事態は途端にややこしくなってしまう。 彼はどうして、私に身元を明かしたんだろう。考えても考えてもわからないのは当たり前で、なんて非生産的なのかと笑い出したくなってしまうんだけど、それでも欲求はとどまることを知らない。きまぐれに出会ったひとみを逃がさないようつかまえて、ゆがんだ笑みを真似てみせた。ランスさんの形のよい眉がぴくりと跳ね、まるで独りごとのように呟かれた。 「おまえが笑っていると気味がわるい」 「……ひどい言いようですね、ランスさん」 「何を言っているのやら……私は悪党の巣窟にいてなお冷酷と呼ばれるのですよ。そんなことは今さらでしょう」 「そんなことありません」 とっさにつよく否定してしまってから我に返る。……私、今なんて? おかしい。こんなの変だ。ほんのついさっき、ランスさんのことばに傷ついたのは私だったはずなんだ。気づかれないようにこっそりと脈打っていたはずの心臓を串刺しにされて、一瞬、息が止まってしまったほどの痛みを覚えたはずなのに。 私が目をそらすより先に、気まぐれなエメラルドのひとみは新しく注がれた琥珀色の液体へと移っていってしまった。ひかえめな照明は、ランスさんの横顔に長い睫毛の影を落とす。ふと唐突に、やわらかく吐息のもれたくちびるに触れてみたい、いま触れなければと思ったのは私が先なのか、それとも。 「もし私がおまえの泣き顔の方がすきだと言っても、まだそんな口がたたけますか」 「……たたけます、と答えたら、ランスさんはどうするんですか?」 もしかしなくてもこのひとは、もうとっくに、私の根本に息づく存在を知っていたのかもしれなかった。ちいさな舌打ちが聞こえた気がしたと思ったら、身じろぐまもなくカウンターのうえに置いていた手にぬくもりが重なり、カウンターの角の隅、暗がりへ引っ張りこまれる。いきおいのままに倒れこんだせいでしたたかに肩を打ちつけたのだけど、捕食者のぎらりとしたひとみを間近に認識したら最後、もうどうしようもなかった。 「もちろん、望むとおりに泣かせてあげますよ」 脳に直接流しこまれた蜂蜜のような声に思わず目をつぶってしまえば、あとは身震いするほど生々しい舌が耳を這う。 くやしいほど素直にうるんできた視界をリセットしたくてまばたく。五感も埋め尽くされるほどに支配されたなかで、自分の羽音だけはふしぎなほどよく聞こえた。 ace/120413
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