がらんとした廊下にひとけはなく、ぺたぺたとした2組の上履きの音が怖くなってしまうほどよくひびいた。ひとつ階を違えるだけでこんなに空き教室が見つかるなんて。前を行くグリーンががらりととびらをひらいて、それにつづいて歩み入った青い窓ぎわに、ゆらゆらと残光がゆれている。深海のようだった。 「うわ、懐かしい……」 「だよな」 うす暗い窓越しのグラウンド、教室後方に設置されたひくいロッカー。数こそ変わっているものの、記憶と合致する空気に私はおもわずつぶやいた。褪せたシアンに染まり、沈黙する岩珊瑚のあいだを抜けていくグリーンがふり返ってちらっと笑う。離れる距離そのままに靄がかっていくようで急に不安にかられ、私はどうにかくちびるに笑みをのせてみせてから、できるだけ急いで電気をつけた。 刹那、音もなく沈黙の世界は過ぎ去った。 「思いだした。オレ、最初この席だった」 「そうだっけ」 「ああ。ありえねーって思ってたから印象に残ってるんだよ」 だって入学したてで教卓の真ん前だぜ、とグリーンは最前列中央の机に行儀わるく座って私をみた。名前順で座っていた頃の記憶がどうしても思いだせず、私はあいまいな返事を返してその後ろに荷物を置いた。 「でも、こんなに残ってるひとがいるなんてびっくりだよね」 「……そうだな」 それだけみんな、意識し始めているんだろう。年度末に待ち受ける壁はおおきくて厚い。くぐり抜けることも、乗り越えることも、そうそう容易くはないのだから。グリーンは持っていた黒いスクールバッグを床に置き、机から椅子へ移動して準備をととのえる。久しぶりなはずなんかないのに、後ろから見るすこし立った襟だとか、アイロンのかかった、けれどすこししわの寄ったシャツだとかが妙に遠く感じる。 そういえば、グリーンにはよくできたお姉さんがいたんだっけ。会ったことはもちろんないけれど、ものすごく美人で気配りのできる、女のなかの女、って感じのお姉さん。美形姉弟だって地元では有名らしい。うわさはうわさを呼ぶことを知っていたし、なによりこれを聞いたのは一年の本当に初めのころ。まだ、グリーンを「グリーン」として認識していなかったときのことだからすっかり忘れていたけれど。 「……で。おまえは今日、何すんの?」 「んー、今日は世界史の日かな」 「まじかよ……」 桑原先生に暴かれてしまったせいか、グリーンはもう取り繕おうとしなかった。あからさまに嫌そうな顔をしたグリーンに、私のくちびるは勝手に弧をえがいてしまう。 「教えてあげよっか?」 「いやがらせか? オレは今日、数学の日って決めてんの」 「でも桑原先生に特命うけちゃったし……それにいつもグリーンに教わってばっかりだから、私」 「あれはオレが好きで教えてるんだから気にすることじゃねーよ」 だいたい、話そらすなよ。 椅子の背もたれに腕をつき、こちらをふり返ったグリーンはくちびるをひき結ぶ。どくりと呼応した心音を隠したくて、私は笑った。 「そらしてなんかいませんー」 「いいや、反らしてるね。オレがおまえに教えてることと、おまえがオレに教えることは今、関係ない」 「どうして? 等価交換だって言ってるだけなのに」 「じゃあその等価交換で言うけどな。オレはおまえにたくさん恩を売ってるんだから、オレはオレのしたいようにする権利があるだろ」 「……うん。たしかに」 「ほらな」 よほど私をやりこめたのがうれしいのか、得意げな顔でグリーンは笑う。変なの。いつだってグリーンに私は勝てやしないのに。あれほど悔しかったはずの敗北が、この笑顔ひとつでこれほど甘美なものに変わってしまうなんておかしい。 とく、とくと早いリズムを刻むこころは冷たい血液を全身に送り、すこしずつ私の四肢を麻痺させるつもりなのかもしれなかった。 「始めるか。なにか分かんねえところあったら聞けよ」 「……世界史でも?」 「はあ? ばっか、それはおまえの専門だろ」 それくらい言わなくても分かれよ。さっきまでの青さは消え、さわがしいほど明るい蛍光灯のしたで笑うグリーンがまぶしくて、私は目をほそめて笑みを返す。耳元で反響する鼓動が身を切るようだった。 ねえ、ずるいよ。グリーン。 120330
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