ゆらゆらとかすかに茶をまとう、薫り高い漆黒が気をひたす。西日の射す給湯室のなかはオレンジに染まり、何もしらないひとからすれば夕陽の香りがするとでも思ってしまいそうなほどの融合ぐあいだった。 はじめてジムの裏手に入ったのは、私がジムトレーナーの試験に受かったまさにその日だった。ニビジムのトレーナーにひとり欠員が出てしまい、その穴をうめるための、ジムとしてはどうしようもない募集だったのだと後に聞いたのだけれど。それでも私はそこに受かり、そしてたったひとり採用試験管として私の面接とバトルをみてくれたジムリーダーが、私の採用決定と、ジムの案内をしてくれたのだ。 ここが裏手。おれたちジムの人間が、休憩をとったり書類を片づけたりする場所だ。そういってひらかれた扉の先にはたしか、同じような夕陽の香りが満ちていたような気がする。 リーダーはとてもコーヒーがすきなひとなのだと知ったのも、そのときだったと思う。 「リーダー、コーヒー入りましたよ」 「ああ、ありがとう。助かるよ」 併設された給湯室からふたりぶんのコーヒーを持って、私は裏手と呼ばれる休憩室にもどる。ちょうど窓辺に置かれたデスクで書類を片づけていたリーダーがふり返って微笑んだ。 「悪いな。帰るところだっただろう」 「そんなことないですよ。私もちょうどコーヒーが飲みたいと思って、給湯室に寄り道するつもりだったので」 「そうか」 中身がこぼれないようそうっと差しだした銀色のステンレスカップを、日に焼けたうでがすっと伸びてきて受けとっていく。かすかにふれる指先のぬくもりは、通熱性のたかいステンレスのせいかほとんど感じることはなくてほっとした。緊張のせいなのか、もしかしたらただの渡したときの振動かもしれない。かすかに波うつ液体に口をつけるタケシさんをハイアングルから見るのがどうしてか気恥ずかしくて、私も夕陽をみるふりをしながら自分のマグをすすった。まだ大分あつい。 立ったまま赤いマグを握りしめる私をまた見上げ、何を思ったかタケシさんはかすかにくちびるの端をあげてみせた。 「どうした? 座っていいよ」 「あ……、いえ。だいじょうぶです」 「疲れていないのか? 今日はことさら、人数が多かったのに」 「リーダーに比べれば、私なんてまだまだ疲れたうちに入りません」 じわじわと手のひらに浸食する熱が、異様に早まった血流をつたって頬にながれこむ。だけどジムトレーナーになって早二ヶ月、こうしてリーダーとゆっくりお話ができる機会なんてなかったから気まずくなんかなりたくなくて、私はあたまも真っ白なままくちびるの端をあげてみせる。タケシさんの大人っぽい微笑みにはほど遠いとわかってはいるけれど。 タケシさんは私の笑みを見て、ちいさく笑ってまた、そうかとだけ言った。なにを考えているのかわからなくて、私はくちびるを噛む。 だんだんと落ちていく日が陰影を色濃く残していく。どうしてこのひとは、夕陽の残り香をこんなにも味方につけることができるのだろうか。 「リーダーは、これからまた仕事があるんですよね」 「明後日締め切りのものがいくつかあるからな」 「あさって……」 「まあ、これは自業自得なんだが」 ちらっと苦笑いのようなものがよぎったくちびるはそのまま私の淹れた苦みの海へ浸される。私もなぞかけのような自嘲に満ちたことばの答えをさがして、先ほどよりはぬるまった、けれどまだ熱いマグに口をつけた。 ジムの人間としてジムに入るまではわからなかったのだ。単純にポケモンバトルをするだけじゃなくて、それを仕事にして生きていくことの意味を。そんなに簡単に手にはいるものだとは思っていないけれどやっぱり私には足りないものだらけで、できるだけはやく追いつきたくて、毎日、どんなにすこしでも残ってバトルの自主練習をすることにしたのだ。今日だって、こうしてジムに残っていたのはそのためで。 ジムのひとみんなに、そしてだれよりリーダーに、新入りだからと思われたくなかった。そんなに歳が変わらないのにひとりのジムリーダーという責任ある役目を負っている目の前のこのひとには、特に。 「今日は戸締りはおれがやるよ。遅くなりそうだからな」 「……タケシさん」 「ん?」 「私にできることって、ありませんか?」 「戸締り以外の上がりの用事はもう終わってるんだろう? だったら大丈夫だ。仕事が早くて助かるよ」 きみが来てから、ジムの効率は格段にあがってる。 窓の外へ馳せていたひとみをこちらに移し微笑まれて、私はひとしれずマグの取っ手をにぎりしめた。暖まった陶器のつるりとした感覚が私の爪を拒んでかすかに音を立てる。遠回しの否定なのか、そのままなのか。沈みゆく太陽が悲鳴をあげ、真っ黒いコーヒーは私のてのひらで息絶えてしまいそう。 タケシさんは私を認めてくれているのに、これ以上何が不満なのか。聞かれればすぐにでも応えられそうなほどふくらんでしまったそれに名前をつけるのはきっと、びっくりするほど簡単なはずだ。こつ、と軽い音をたててタケシさんがステンレスのコップをデスクに戻すと同時に私はマグをあけた。 「……なまえ」 「は、はい」 「焦る必要なんてないんだ」 ゆっくりと紡がれたことばに、私は小さく息を呑み、はじかれたように顔をあげてしまった。ああ、こんなだからわかりやすいと友達にも子ども扱いされてしまうのかもしれない。自覚しつつもおどろきは醒めなくて、今度こそ手が、声がふるえてしまう。 「どう……して、ですか」 「見ればわかるさ」 「そんな」 「ああ、ちがう、悪い意味じゃないんだ。おれは、きみのそういうところは長所だと思ってる」 それに、ジムトレーナーになりたてのやつは大抵、最初はあせるものだからな。やさしさに浸されたキャリアゆえのことばに、私は返す言葉がみつけられなくて立ちつくす。窓の外では侵略してきた闇が街灯におどり、タケシさんはさて、とそこで話を打ち切った。 「暗くならないうちに、と思ったんだがもうすっかり日が暮れてしまったな」 ことばの裏の意味を勘ぐってしまうばかりに判断力の鈍った私と、さっきまで小難しい書類に立ちむかっていた上に残業を控えたタケシさんでは、どちらに勝利の旗があるかなんて火を見るよりも明らかだった。うながされるままに導かれたのはジムの裏にあるスタッフオンリーの出入り口で、まだたくさんやることはあるはずなのに、ここまで見送りに来てくださった手前、私は帰るしかない状況まで追いつめられているということで。そんなところまで確信犯でやっているのかな、このひとは。抗議の意味をこめて睨みあげたつもりでいたのに、どうした? とほほえみで返されてしまった。 「大丈夫だ。あせるなよ」 「……わかっては、いるんです。けど……」 「自信がないのか」 もちろん、自分で言うのもなんだけれどジムトレーナーに応募したほどなんだからバトルに自信がないわけじゃなかった。それでも先輩のジムトレーナーさん方にくらべたら私なんてまだまだ甘いところだらけで。 返答できずにくちびるを噛んでうつむいた私のつむじに、それは突然落ちてきた。 「おれはあまりこういうことを言う質じゃないんだが……。なまえ、きみの実力を見込んだのはおれだぞ」 さらりとかすかに触れた熱は壊れものを扱うかのように私の耳をかすめ、つむじとの往復をくり返す。なだめるように撫でてくれるぬくもりが、私の気分をあげるために一生懸命なのを伝えてくれる。スタッフオンリーと記された、そのインクですら剥がれかけた重たいドアに街灯は当たらない。秘めごとのようにささやく声が照れているのがわかって、私はようやく微笑んだ。 「……はい。ありがとうございます」 「そう、その目だ」 顔をあげた私の耳あたりで手をとめたタケシさんと目があう。引きよせられたのは視線だけじゃなかったのかもしれなかった。 120329
|