「あれ……、なまえ帰らないの?」 きょとんと目をまるくしてふり返ったゆっきーにうなずいて、私は手に持った参考書をひらひらと振ってみせる。微細な資料までがっつり載った私のおきにいりのそれは重たくて、なんだか一定のリズムをきざむメトロノームみたいな動きになってしまった。スナップした手首に負荷がかかる。 「私、まだ質問があるから」 「なあに、理系科目? 私が見てあげよっか」 「ううん。残念だけど、今回は世界史なんだ」 「うげっ」 歴史は無理だー、とあけっぴろげに笑うゆっきーがまぶしくてありがとうと私も笑う。重そうなスクールバックを肩にかけたゆっきーとならんで、私は参考書と筆箱だけを持って教室をあとにした。 ざわめく廊下は以前までのこの時期とは比べものにならないくらい過密で、ロッカーから置き勉していたんであろう荷物をとりだすひと以外にも、おたがいに単語問題を出しあうひと、数学の公式を復唱するひと、いろんな専門用語が交差している。 ひょいひょいとふたりで人混みをぬいながら進む。通りすがった教室からるりちゃんとなっちゃんがバイバイと手をふるのへ応え、私たちは階段をかけ下りた。 「世界史っていまどのへんやってるの?」 「うーん……もうすぐ一通り終わるかな」 「近代?」 「っていうよりはもう現代かな。戦争とかいろいろ」 「うわあ…私たちが磁界に電子放りこんでる間に、文系はヘビーだけどすごく役に立つこと学んでるんだね」 「なに言ってんの、理系の方がすごいよ。数字がならんでるだけであたま混乱しちゃうんだから」 ゆっきーが手でよくわからない円をぐるぐると宙に描いてみせる。たぶん磁界に電子を放りこむとこんな動きをするんだろうなと指先を追いながら、似たようなことを言ってグリーンにばかにされた1年前を思いだした。私が漢字のなかで日々を泳いでいるように、グリーンやゆっきーは数字のなかで日々をすごしているのかな……。どうしたって一線が存在するひとつの壁だけど、私たちにとっての記憶が数字に置きかわっているようなものなの? 両方を経験したことがないからわからないけれど。 じゃあねと手をふってさらに階段をかけ下りていく紺色のスクールバックに、ぎっしりと数字がつまっているところを想像したらなんだかおかしかった。 職員室はあいかわらずと言うべきか、この時期には納得の混み方をしていたけれど、世界史の桑原先生はすぐにみつかった。ベテランのやり手らしくてきぱきと、私の疑問を時系列を追ってくわしく説明してくれた先生はふと、世界年表を描きだしていた赤ペンの先をとめる。キのはらいでとまったペン先をいぶかしむよりも先に耳に届いた声が信じられなくて、私はちいさく息を吸った。 「桑ちゃん……と、あれ、なまえ?」 「おいこら。どう呼ぼうと一向にかまわんが、とにかく先生をつけなさいと言っているだろう、グリーン。お前のせいで後輩たちにしめしがつかないんだぞ」 「ああ、はい。すみませんでした」 「口先だけの謝罪はもう何度も聞いている」 まったく、と言いながらも桑原先生のくちもとにはやわらかな笑みが浮かんでいて、どうやらグリーンのコミュニティのひろさは生徒をも超えるみたい。こいつの次にオレも質問いいですか、と八重歯をみせて笑ったグリーンのひとみからあふれ出たのは太陽のような明るさで、うなずいた先生の赤ペンがそれて年表の線をかすった。私はそれを見つめるふりをしながらこっそり、ちいさく息を殺して呼吸をする。 これくらいのこと、今までだって何度もあったはずなのに。 「ああそうだ、いっそのことグリーンも彼女に教わればいい。倫理も英語もできるのに世界史だけ目の敵にするんだからな……きみは世界史の楽しさを学ぶべきだよ。なあ、そう思わないかい?」 「えっ、グリーンって世界史きらいだったんですか?」 「桑ちゃ……先生、よけいなこと広めないでくださいよ」 にこにこと私に話題を寄こした桑原先生のことばに、グリーンはむすっと口をひきむすぶ。グリーンにもきらいな教科なんてあったんだ、とつい本音をこぼしたら、当たり前だろとますます機嫌をわるくしてしまったみたいだった。 「オレだって万能じゃねーよ」 「そんなことわかってるけど。……でもやっぱり意外かも」 「あのなあ」 嫌そうな顔をしてみてもこころから嫌がっているわけじゃないのはどうしてかわかって、それがたまらなく可笑しい。グリーンにからかわれることはあっても、こうしてグリーンをからかえることは滅多にないからかもしれない。早まりっぱなしの鼓動がどうしたって頬を紅潮させるのはわかっていたから、ごまかしと楽しさをない交ぜにして私は笑った。 桑原先生も口もとをゆるませたまま、あらためて書き途中だった年表に向きなおる。となりでグリーンもそれをのぞきこみ、再開された私の疑問のからまりが解かれるのを、そのまま最後まで聞いていた。 「わかるかい?」 「……複雑ですね」 「そうだね。この時代はいろんな策略がからみあっているから」 「私のあたまのなかといっしょですね」 「そりゃ困ったな」 はは、とかろやかに先生は笑い、まだ何かわからないのかなと首をかしげる。わき出るように口をついてでようとした私のことばを遮ったのはグリーンで、抗議をしようと見あげた横顔は思いのほか真剣だった。 「ずっと疑問だったんですけど。こんな複雑な問題、解くことってできるんですか」 「……問題?」 「ああ……国政問題のことかい?」 「そうです。オレが世界史ばっかり放置するって桑ちゃ……先生は言いますけど、オレだったらどうするか考えてるうちに疲れるんですよ。どう考えたって揉めごとは不可避じゃないですか」 私は息を呑んだ。ずっと、と傲れるほど近くで見ていたわけでもないのに、私は私を過信しすぎていたのかもしれない。なんのために勉強していたんだろう。私が世界史をすきだった理由はなんだろう。 桑原先生はじっとグリーンを見ていて、グリーンも先生を見ていた。 「……撤回するよ。きみは学者に向いているね、グリーン」 「それはどうもありがとうございます」 「いじけるなよ。いい心がけだと言ってるんだから」 ふうっと息をはいた先生は、さわがしい職員室の窓から空を見やる。つられて私も、そしてグリーンも仰いだのがゆらいだ空気からわかった。めまぐるしく動きまわる先生生徒のなか、降りそそぐスカイブルーだけが唯一、おだやかで。 「歴史の糸だまはそう簡単には解けないさ。世界中に住む何万、何億の人間を悩ませる問題なんだぞ」 「そう……ですね」 「正解があるのかすら、だれにもわからない。そういう時にいちばんいいのはどうすることだと思う?」 私たちを交互にみつめる先生のひとみはあたたかく、歩んできた時間の差をもって微笑んでいた。グリーンがすこし緊張した面持ちで私を見るから、私はつめた息をそっと吐きだすことができた。 「私は、最善策をとりたいです」 「どうやってそれが最善だと知る?」 「それ、は……」 すばやく、正確な切り返しをくらって一刀両断されてしまった私はまだ甘いのかもしれない。背後を通ったひとの起こす風にひらりと、抱えていたプリントが飛んでいって我に返った。 120318
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