近所のハヤトさんは私より五つほど年上で、昔から頼れるお兄さんだった。 キキョウシティのなかでも比較的子どもの多い地区で育てばだれしもがわかることだけれど、私たち子どもにもおとな顔負けのおおきな、学年を越えたコミュニティがあったのだ。そのなかでもみんなのまとめ役だったのがハヤトさんで、たとえばいつだって小競りあいやら喧嘩やらが起きればかならず、ハヤト兄ちゃんにしらせなくっちゃ!とだれかが駆け出すことになっていた。両側から半泣きのこどもたちに袴の袖をひかれてきたハヤトさんは、いつもちょっとだけ困ったように眉尻をさげて笑っていた。まったく、今度はなにがあったんだよ、と。口ぐちに連ねられる説明は年相応に幼かっただろうに、ハヤトさんにはいつもどうしてかきちんと伝わった。そうして彼に任せておけばなにもかもがうまくいくと、みんな盲信的なほどそう思っていたにちがいなかった。 けれどその幼くておおきなコミュニティには期限があった。代々受けつがれる風習のようでいて、けれどみんなが自然に悟っているリミット。ポケモンをもらって旅に出たり、トレーナーズスクールに通いはじめたり…それぞれの時間制限を持つにもかかわらず仲良くしていられるのは、子どもだったからなんだろうなと今になればわかる。 だれもがそうであるように、そのコミュニティを脱退してから、ハヤトさんと会う機会は格段に減っていた。そうこうするうちに私もそのぬるま湯のような安全地帯から旅立ったのだけど……、帰ってきたときには、ハヤトさんはこの街のジムリーダーになっていた。 最初の驚きったらなかった。簡単には信じられなくて、電話越しに確認しまくったらとうとうお母さんにめんどくさがられてしまったっけ。記憶と寸分違わぬキキョウの街はもう夕闇に飲まれようとしていて、ぼんやり灯りはじめた家々の明かりをよそ目に帰路を急いだ。 「なまえ……?」 「え……」 「やっぱりなまえか! 帰ってきてたんだな!」 訝しむようにかけられた声は、私がふり返ったことでポップコーンのように弾んだ。さっき通りすぎたばかりのキキョウジムから駆け出してくる人影はなつかしく、つい先ほどまで想起していた本人の登場に、私はおおきく狼狽した。まさかハヤトさんが私を覚えていてくれてたなんて、まさか呼びとめてくれるなんて、びっくり以外の何ものでもない。おおきなコミュニティの中心だったハヤトさんとちがって、私はいつまでも、ただのちいさな構成員だったのだから。 走ってきてくれたはずなのにちっとも乱れない息でとなりにやってきたハヤトさんは、すこし高めの位置から、ちょっと不安を混ぜたようなひとみでにっこりと私に微笑んだ。 「久しぶりだな。オレのこと覚えてるか?」 ちょっぴり自信なさげなせりふに私は目を見ひらいた。忘れられるはずがないというのに、なにを言っているのだろうかと。コミュニティの中心だった彼はやさしいだけでなく昔から女の子のあこがれの的だったし、とりわけ今はジョウトリーグの一端を担うジムリーダー。イケメンジムリーダーだなんて雑誌で特集される彼をどうして知らないことがあるだろう。 当たり前じゃないですかと思うままに答えれば、よかったと微笑みから険のようなものがとけ消えた。すらりと伸びた手足、風になびくのは長い藍の髪。立ち居振る舞いの堂々たるや、もはや私の知る彼ではなく、それでも微笑みだけはみんなのやさしいハヤト兄さんのままで、私もかすかな鼓動のしびれを感じながら微笑み返した。一番星がかがやきはじめるのが、今日はずいぶんと早い。 「ちょうどジムを閉めようとしたときに前を通るのが見えたんだ。人違いじゃなくてほっとしたよ」 「ハヤトさん、もう定時ですか?」 「ああ、今日はいつもより早いんだ」 ほっとしたというハヤトさんの頬はたしかにすこし高揚していて、どうしてか話題を変えねばならない気持ちに駆られた私は首をかしげてみせる。ハヤトさんは私にすこし待っててくれと言い残し、ジムのカギを閉めにもどっていった。 ぼんやりと暖かい風はゆるやかに私の思考を攫い、道脇によけて見あげる闇の隅っこ、まだ太陽の叫びがにじんでいる向こうへと逃げていく。 「待たせてすまない」 「いいえ、大して待ってませんよ」 「あわてて呼びとめたから、閉める暇がなかったんだ」 街灯の下、ふたたび走ってきてくれたハヤトさんといっしょに歩きだす。ちらりと脳裏をよぎった記憶に呼ばれて私はまばたいた。そういえば一度だけ私も、ハヤトさんにお世話になったことがあったような気がする。 まるでそれにシンクロしたかと思うほどタイミングよくハヤトさんは口をひらき、そういえば前にもこうして歩いたことがあったよな、と笑った。 「なにがありましたっけ」 「忘れたのか? 足をくじいたんだよ」 記憶の残らないほど幼くはなく、鮮明なほどおおきくはないだろう当時の私の歳をつむぎ、ハヤトさんはゆっくりと歩を進めながら説明してくれた。 「あのときはびっくりしたな……。おとなしいと思ってた子の名前が出たと思ったら怪我したって言うから、喧嘩したのかと思ってあわてたよ」 「私、おとなしくなんかありませんでしたよ?」 「ああ、それを知ったのもあのときだったな」 おかしそうにハヤトさんは笑う。記憶にあるより低い、のどの奥でうまれる泡みたいな笑い声は私の耳じゃなく心臓をくすぐって落ち着かない。 「鬼ごっこで本気出して、走って転んで足をひねった女の子を負ぶったのなんて、生涯でもあのときだけになるだろうな」 「ちょっ、ハヤトさん! あんまり言わないでください。申し訳ないと思って、これでも反省してるんです……」 「でもオレはあれ以来、この子からは目を離しちゃいけないって学ぶことができたんだ。だから気にしなくていい」 どういう意味だろうか。受け渡されたことばを瞬時に深読みしてしまって息を止めた。どうしようもなく期待してしまうのは、あの日あたたかな背にふれて知ったはじめての感情の息の根を止め切れていなかったせいかもしれない。 とっさに上手いことばの出なかった私をどう思ったのか、ハヤトさんもことばを切った。ずいぶんと家が近づいて、きゃあきゃあと追いかけっこをしながら子どもが傍らを通りすぎていく。 「……でも、ずいぶん大人びたな、なまえ」 「え、あ……そうですか? ありがとうございます」 「旅に出たと聞いていたけど、今はどうしてるんだ?」 途切れた会話をつなぐのはむずかしいはずなのに、さらりと話題を提供してくれるハヤトさんはもうおとななんだとふと気がついた。たどたどしかっただろう私の態度も、早足がつらいヒールも、すべてハヤトさんがなめらかにしてくれているようで。 5歳の差は近いようでいて、絶対的に私とハヤトさんを隔てていた。ハヤトさんは私を大人びたというけれど、たぶんきっと、ハヤトさんの方がずっと大人に近づいている。それは年齢差だけの問題じゃないような気がした。 「キキョウでトレーナーズスクールに通っています」 「スクールに?」 「はい。エリートトレーナー養成クラスに……」 「ああ、なるほどな」 なまえはエリートトレーナーになりたいのか、とくり返すくちびるには無意識なのか微笑みが乗せられていて、私はまっすぐ前を向くその横顔を盗み見たことを後悔した。こちらをふり向く気配にあわてて目をそらし無言でうなずいた。 こころの底で眠るように横たわっていた気持ちを目覚めさせたのはきっと今日私を呼び止めたあの声で、連れ去られた思考回路は色づいた風に抵抗できそうもない。 「オレも、なまえと戦ってみたかったな」 「えっ! 私はいやです」 「……その反応、すこし傷つくな」 「違うんです。そういう意味じゃなくて……」 ちょっと自嘲ぎみにハヤトさんが肩をおとすから、私はあわてる。どうしようもなく振りまわされるのは私ばかりで、なんだか悲しいほど悔しかった。 「昔なじみのひとと戦うのって、抵抗があって」 「そうなのか」 「はい。本当は、ハヤトさんのお父さんと戦うのだって抵抗あったんですから」 「……そうか。なまえも父さんと戦ったんだな」 「はい。かっこよかったです」 そうだ、あの日ハヤトさんに負ぶってもらいながら聞いたのは、キキョウのジムリーダーのはなしだった。旅の第一関門に苦戦した日々を思いだして私のくちびるはおのずと笑みを形づくる。ハヤトさんのお父さんはとてもつよくて、なんどくちびるを噛みしめたかわからない。まっすぐなまなざしは今の彼にとても似ていた。 「そうだな……父さんはつよかった。オレもがんばるよ」 「応援してますね」 「ありがとう。おまえもがんばれよ」 「もちろんです!負けず嫌いですから、私」 「そうだったな」 ハヤトさんの背中にすがりつくことになった原因を思いだしてふたりで笑う。じくじくと痛むのは眠りから起こされ、まさに消えようとしているその破片が尖っているからだとわかっているけれど。 「それじゃあそのときは、オレがお前に勝負を挑みに行くよ」 「え……。嫌がらせですか、ハヤトさん」 「そうじゃない。でも今は言わない。しばらくはここにいるんだろう?」 「はい。いますけど、でも……」 「いずれわかるさ」 ハヤトさんの表情を確かめたかったのに、とつぜん伸びてきた手が私のあたまをぐしゃぐしゃと、昔よりずっと乱暴に撫でてきてそれは叶わなかった。ふれた温もりがもたらしたのは懐かしさではなく、ぐさりと刺さっていたはずの尖りを溶かし、傷を癒してしまう、まるで薬のような。 お醤油のいい匂いが満たす住宅街を泳ぎながら、たとえばひとによっては鼻で笑われてしまうくらいばかばかしい、私だって長いこと信じずにいたことを、いとも簡単に信じてしまいそうになる……そんな奇跡みたいにふしぎな、それでいて一番星よりもかがやかしく見えてしまう、嘘みたいな感覚を抱いた。 ace/120315
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