※閲覧注意 婉曲的流血 あなたは馬鹿ですか、と聞き慣れたフレーズが響き、私は顔をあげた。ぐったりと私のうでのなかに横たわる身体は脱力して重く、私にいのちの重みを伝えている。 ちょうど私に影をつくらない距離をとった長身を近場の幹にあずけ、そのひとは私に視線をそそいでいた。冷水のようなそれにすらすがりたくなる心境を、私のひとみはきっとこれでもかというほど映してしまっているのだろう。散々、染まれといわれてなお染まりきれない私の血が、これほどまでに憎らしかったことはない。 私のSOSを拾ったエメラルド色の上司はやはりというべきか、必死な私を見下ろしてくちびるに薄ら笑いをうかべた。 「しかしまあ、普段小生意気なあなたのそれほどまでに哀れな姿をみることができるのもまた、一興かもしれませんね」 いつものように回りくどい言い方をするのは私の神経を逆なでするためなのだろう。もともと、私はこんなに汚い世界の裏をみるような人間ではなかったはずなのだ。今となってはそれを証明する手だては、今にも灯火を消そうとするうでのなかの重みだけなのだけれど。 ぽつりとこころに落ちてきた激情はすさまじい勢いで私を支配した。薄目をあけて私を見つめる大切ないのちを抱きしめ、私は目の前で笑みすらうかべる上司をはげしく憎む。しかし皮肉なことに、彼はまた私の救世主たるものでもあった。彼にとっては私のひとにらみなんて、私に憎まれることなんて、ひろったコラッタに噛みつかれるほども痛くないのだろう。 うわさどおりの冷酷なひとみに映る私はひどく醜かった。 「……私は、あなたみたいには絶対になりたくありません」 「そうでしょうね。言われなくてもわかりますよ」 私はあなたとちがって馬鹿ではありませんから。ランスさまがはき出すことばは、三日月をえがくくちびるに似つかわしくないほど湿っている。べちゃりとこころに張りつくそれはもう幾重にもかさなって息苦しさを増す。 ゆったりとした動作ですばやく近づいてきたランスさまの影が私に一瞬だけかかり、またすぐさま離れていった。細々と息をするロコンの傷を見やり、片膝をついたランスさまは無表情でちいさな薬をとりだした。 「どんな戦い方をしたのですか」 「……あなたに、言われたとおりにしたまでです」 「おや、あなたは私を嫌っていたのではありませんか」 「ええ、大っ嫌いです」 だいっきらいと言い放てるほどには大っ嫌いです。傷にしみるのか、身体をふるわせたロコンはときおり低くうめく。私のことばにか、そのうめきにか、ランスさまは不快そうにまゆをひそめると私に命令した。片膝をついてなお、森のなかに座り込んだ私より高い位置にあるきれいな顔は、やはりゆがんでも美しいままだ。 「その口を押さえておきなさい」 「口…ですか?」 「けものの口ですよ、なまえ。私のうでが噛まれたら減給します」 「ロコンはひとを噛んだりしません」 「どうだか」 ふっと鼻でわらうランスさまはしかし、命令をかさねたりはしなかった。スプレー式のきずぐすりを、したっぱは持つことがゆるされていない。幹部ですらそうそう無駄遣いのできない高価なものだったはずなのに、どうしてとあたりまえの疑問を抱くことを、ランスさまは私にゆるしはしなかった。 弱々しかった呼吸が、だんだんとゆったりとした安定したものに移行していく。どうやら眠っているようですねとつぶやいたランスさまの声がほっとしているように感じてはじめて、なぜだか無性に、この大嫌いな上司の表情を確認したくなったのだ。 けれど私の口がひらくのを予期したように、ランスさまは私に空のスプレー缶を押しつけると立ちあがった。見上げた先の空から闇がちかづいていて、黒い団服はとけ消えてしまいそうにすら見える。 見下ろしてくるひとみは影になっていて、読むことは難しかった。 「大嫌いな上司の言うことを、ここまで実行する馬鹿なしたっぱを、私は初めて見ました」 「そんなの、あなたと同じですよ」 「……同じ?」 「そうです。上司のいうことを聞いていれば、のし上がれるでしょう?」 「出世したいのですか」 「もちろんです」 傷を治すため、体力を回復するために眠りについた大切なパートナーを、きらびやかな金で縁取られた漆黒のボールに戻して立ちあがる。たったひとりの子どもに追われて逃げだすとき、幹部を優先的に逃がすためにはどうしたって囮が必要で。 逃げまわりつつ適度に目撃されなければならず、そのうえで追っ手をなぎ払っていた私は泥だらけで、そのうえロコンの致命傷の痕を負っている。唐突に、汚れきった手首をいたいほどにつかまれて私はほそい悲鳴をあげた。 「な……にするんですか!」 「言ったはずですが。私を侮るから悪いのですよ」 「侮る?」 なにを言っているのか、と訝しむまもなく、ランスさまの手がぬかるんだ手のひらに流れた。なま暖かい感触は心地よさよりも気持ちのわるさを呼び起こし、私ののどは痙攣をおこしたようにひくついた。 「……やはり、震えていますよ。よっぽど恐ろしかったと見えますが」 出世と恐怖、どちらの方が上かなんてたかが知れている。出世欲が高くても、捕まってしまえば意味がないのだから、深く考えなくてもすぐ答えにたどり着くはずだ。 意志に反して小刻みなリズムをもつ指先をしっかとにぎられて、身をよじるまもなくランスさまは私の背を、ふとい木の幹に押しつけた。体格差は歴然でどうしようもなく、私は目の前で動くくちびるのなか、ちらちらとのぞく赤い舌に戦慄する。首をかしげるより深く傾けられたうつくしい顔に、直接ながしこまれる声に、私はすべてに鳥肌をたてた。 「まさか私が気づいていないとでも?」 ふかふかのソファのうえ、つややかなふたつの尾をくるんと振って私を出迎えたロコンを撫でるように、ランスさまの手が私の頬をたどり、首筋を、鎖骨をなでて肩から落ちていく。濡れぼそったこころに追い打ちをかけることばが深々と突きささるのに、私はとげ抜きをなくしてしまっていた。 つめたい指先を肌のうえに感じる。 120308
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