novel | ナノ

切れた息のリカバリーは鼓動がもどるよりもすこし早かった。息苦しさは同じでも、全身をとりまく生ぬるい揺らぎがないのはなんだか物足りない気がするのは、やっぱり水泳部員だからなんだろうな。

とりあえず午前中の種目を終えて、ゆっきーとふたりで来た校舎裏の水道はやはりと言うべきか、他の場所よりもひとが少なかった。


「あーつかれた!やっぱり私は走るより泳ぐほうがすきだなぁ…」
「だよね、私もいま同じこと言おうとしてたよ」
「ほんと!?やっぱりそうだよね!」


私たちには水がなくっちゃ、と笑ったゆっきーは待ちきれなかったかのように蛇口をひねる。涼やかな音をたててほとばしるそれにクラウチングスタートで粉っぽくなった肌が浸される、その感覚がなつかしくておかしかった。一昨日だって部活があったんだから、水に触れていない時間はそんなに長くないのに。


「カトセンも、昨日プール開放してくれればよかったのにね」
「でも昨日くらい休みにしてくれて助かったよー」
「練習はそうだけど。でも水に触れてないと落ち着かなくって」
「うーん、それはそうだけど…」


言いよどんだゆっきーが水を止めた。手もとでさらさらと流れていく水量がはんぶんになり、螺旋をえがいて見えなくなる。追って蛇口をひねろうとしたとき、ぱっと冷たいしぶきがほおをつつく感覚に不覚にもびっくりしてしまった。


「……ゆっきー…?」


思わずじとりと見つめた先で、ゆっきーがうれしそうに笑う。なお懲りずにもう一度手を濡らすゆっきーに、私も負けじと応戦しようとして手を止めた。


「よ、久しぶり」
「あ…、ひさしぶり」


急に反対側から名前をよばれてふり返れば、そこにいたのはずいぶん懐かしくも感じる元クラスメイトだった。忘れもしない、数学の授業でとなりだった彼だ。

以前とかわらぬ人なつこい笑みをうかべた彼も友達と手を洗いに来たらしく、ひと気のなかった水道が一気にさわがしくなる。じゃまにならないようゆっきーふたりで引き返しかけたところで、校舎にとりつけられた時計を確認した彼女はあわてたように走りだした。


「ごめんなまえ、私そろそろ当番だから行ってくるね!」
「あ、そっか!がんばってね!」
「ありがと!」


ばいばいと手をふって、委員会の仕事のために駆けていくゆっきーを見送る私のかたわらを、もう手を洗い終えたらしいさっきの男子集団が走りぬけていく。ついさっき全力疾走したばっかりのはずなのに跳ねるいきおいを保つ彼らは、どこからかはじけるようなエネルギーをもてあまし、発散しているようにすら見える。

まるで嵐が去っていったみたい。急にまた静かになった校舎裏をなんとなくふり返ろうとして、そこにまた彼がいることにぎょっとしてしまった。


「…びっくりした」
「おれも、声かけようとした矢先にふり返るからびっくりした」


照れくさそうにくしゃっと笑う顔に、特別教室の間取りだとか、放課後に染まる7時間目の記憶がフラッシュバックする。くちびるに自然とうかんだものを形容するなら、うれしさよりも懐かしさのほうが近い。

さっき走っていった男の子たちに負けず劣らずかろやかな足取りで私のとなりにやってきた彼の引きつれた気流がふわりと、冷たい水の香をともなって届いた。髪に少しながらしずくをまとうところを見ると、さっきあたまから水をかぶったのかもしれない。


「今さらだけど、特進クラス昇格おめでとう」
「え…うん。ありがとう」


唐突で、だけど心からくれた賞賛なのはわかったからすこし面食らってしまう。そもそも彼と話したのは数学の時間くらいしか記憶にないから、制服を着ていないときに、ノートと鉛筆も持たずに、なんの物語も思いうかべずに並んでいるのがふしぎな気すらしてしまう。

彼はそんな私のとまどいを知ってか知らずか、しみじみしたように空をあおいだ。


「いま思えばおれ、すげーやつに数学教わってたんだよなー」
「何言ってるの、もとはおんなじでしょ?」
「そんなことねーよ」


こぼれでた私の苦笑いをひろった彼の否定はつよくて、私は笑うのをやめた。のんびり歩いていたつもりだったのに、いつの間にかフェンスで囲まれたグラウンドをぐるりとまわってとびらの前に着いている。じぐざぐの柵の向こうで、走順を待つ一年生の列はもう終盤にさしかかっていた。

そのままとびらを開けるつもりでいた私のとなりで、彼は歩みをとめた。


「三年になってから数学の成績がた落ちなんだ」


びっくりしてふり返った私の目を見て、彼はそう言った。


「だからさ、おまえすげーんだよ。自信持てよな。おれが保証する!」


笑っていいのかわるいのか悩んだのは一瞬だった。彼の口角が上がっているのを見ていたら、なんだかくすぐったくて、けれど不思議とあたたかくなる心中をおさえることなんてできそうになくて。


「がんばってみる。…ありがとう」
「あれ、もしかして照れてねぇ?」


ゆるんだ口許を自覚したとたんにからかうような声がとんできて、ぱっとほおが熱くなる。あれ、彼ってこんな風にからかったりするひとだったっけ?

むっとしてくちを引き結べば、あははと楽しそうな笑い声が耳につく。軽いやりとりがなつかしく楽しい原因なんてわかっているけれど、今は思いだしたくなかった。


「そういうこと言われたらふつう照れるでしょ。私、すごいなんて言われ慣れてないし」
「そうなんだ。おれはずっとすげーと思ってたけどな」
「…え?」
「だって水泳もがんばってるだろ」
「がんばってるって…メドレーの補欠だよ?」
「それでもだよ」


おまえはすげーやつだよ、と私を見つめる彼の視線は語気と相まってますますちからづよく、私ののどからせり上がった自嘲をも押しもどしてしまった。

ぱん、ぱんとピストルの音がふたつ鳴り響いて、競技の終わりを告げる。
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