novel | ナノ

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ぐるぐると目まぐるしく回る日々に、ぽっかりと浮いたような午後の空は青く澄んでいた。黒々と四角く区切られたそれがどんな場所で見上げても変わらないなんて、やけに不思議なあたりまえがこの部屋に差しこんでくる。

ぱたんと軽く扉をしめる音にふり返れば、いつのまにかシャワーを終えたらしい傑は薄暗い部屋のなか、冷蔵庫からミネラルウォーターを取りだしたところだった。


「待たせて悪かったな」
「ううん」
「…いま、水しかないんだ」
「大丈夫。ありがとう」


相当いそいでくれたみたいで、シャワーと言ってもたぶん汗を流しただけなんだろう。かすかに水分を含んだ傑の髪はいつもよりすこしだけ寝ていて、ひんやりした天然水のグラスを渡してくれたときにかすかに触れた指先は温かかった。

傑が日本を飛びだして、ヨーロッパで本格的に活動をはじめるのはもう、私と傑が出会ったときからわかってたことだった。サッカーにそこまで詳しくない凡人な私からしてみれば、その時期がやってくるのはずいぶんとはやかったんだけれど……本当は傑にはもっとずっと前から、たくさんのオファーがきていたらしい。ずっと断ってきたそれをようやく傑が受けたのは、高校を卒業してからだった。

赤茶けたレンガの石畳に、歴史のある家並み。傑に宛ててなんども印したアドレスをたどったのは今日がはじめてで、メトロからそんなに離れていない、こぢんまりとしたアパートにたどり着いたときはとても緊張したのだけれど。


「ごめん。駅まで迎えに行こうと思ってたのに」
「謝らないで、練習でしょ?仕方ないよ」


むしろ、私が勝手にきめた旅行の時期に傑の休みが合わさったことだけでも奇跡に近い。それがたとえ、半日だけでも。

さっきからカーテンは開いているのに、明るすぎる太陽光は室内の薄暗さを際立たせてしまう。絨毯のうえに座っている私には、窓を背にして座る傑の表情がよくみえない。久しぶりすぎるほど久しぶりに会えたんだから、もっと見ていたいのに。


「…傑」
「ん?」


かすかに首をかしげるところ、変わってない。なんにも考えてなかったから後につづけることばが見つからなくて、けれど律儀にこちらを見つめて待っていてくれるやさしさも。

片時も、っていうのはもちろん言いすぎで、私だって傑だって、おたがいのことばっかり考えていられるわけじゃない。それでも1日だって傑のことを思いださない日はなかったのに、消えてしまった記憶をなぞるこの不思議さはどこから来るのだろう。

ふるえる指でチャイムを押して、がちゃりとひらいたドアの向こうからあらわれたのは、面影をのこしてなお知らないひとにすら見える男のひとだったのに。ぶれていた私のなかの傑と、いまここにいる今の傑が、一言をかさねるたび、ひとみを見交わすたびに私のなかで合わさっていく。

お疲れさまととってつけたような私のことばにうなずいて、あおったグラスをちいさなテーブルに戻す、かたんという音がひびく。光の加減なのか、傑の顔がよく見えるようになった。


「どこか行くか?」
「どこかって?」
「せっかくこっち来たんだろ。見たいところとかないのか」


もちろん、見たいところならたくさんある。こっちは観光地やら名所がたくさんあるし、ガイドブックでしっかり立てた予定をつめこんだスケジュール帳だってわすれていない。意外そうに私をみる傑の面差しはやっぱりセピアのそれとはすこし違って、けれど私たちのあいだに流れるものはきっと変わっていない。


「たくさんあるよ。こんな小旅行じゃまわりきれないくらい」
「ああ…たしかに、有名なところだけまわったとしても、1週間じゃ半分もいかないな」
「傑はもうぜんぶまわった?」
「いや。3年かけて、ようやく半分だな」


やりとりしていた手紙の初めの方で、傑が休みの日にチームメイトに案内してもらったと言っていた場所を思いだす。傑のばあいは極端に休みがすくないからそうなるんでしょ、と思わず笑った。


「否定はしないさ。だけどそれでも3年分あつめれば、それなりの日数にはなってる」
「うん。そうじゃなきゃ私が怒ってるよ」
「怒る?」
「だっていくらサッカーがすきだからって、すこしは休めないと身体だめになっちゃうよ」


サッカーに詳しくない私だけれど、それくらいは常識だと思うわけで。特に傑は…ピッチのうえの傑はたまに、怖くなるほど身体に無頓着だったから。

ふ、と傑が吐息をついて、私は軽い回想からわれに返った。


「おまえ、変わらないな」
「…そうかな」
「ああ。最初はだれかと思ったけどな」
「うそ、傑、そんな風には見えなかったよ」


おもわずこぼれた私のことばに傑は肩をすくめて目を反らす。傑ももしかしたら、私とおなじように面影をつなげていたのかもしれない。

後ろをふり返って空をながめていた傑がおもむろに立ちあがって電気をつけにいく。それを何の気なしに追っていたから、明るくなった室内でふり返った傑がこんどはよく見えた。


「街中ならすこし案内できるけど、どうする?」
「…うん、行く。行きたい」


いい街だよね、ここ。ぬるくなった水を飲み干して、空っぽのグラスをふたつ重ねてシンクに運んでいたら勝手にくちびるが綻んだ。傑はそうだよとうなずいて、まぶしそうに目を細める。


「こっちに来てからよく思うんだ。オレはここだけじゃなくて、いろんな場所でサッカーがしてみたい」


白い壁にかけられたサムライブルーのユニフォーム、よくわからない言語でつづられた賞状。タンスの上に飾られたたくさんのトロフィーや、床に転がったサッカーボール。あまり生活感のない空気がただようのは実際、傑があんまりこの部屋にいないからなんだけれど。


「よかった?…日本を出てみて」
「そうだな。後悔はしてないよ」
「…そっか」
「でも、オレが帰るのは日本だけだ」


がちゃりと閉めた鍵をポケットにしまって歩きだすかたわら、傑の指はあたりまえのように私の手にふれた。おどろく間もなく指と指がしっかり絡められるだけで、みちびかれる街並みすべてに満たされるように、私はこうして傑越しに世界を受けとるんだ。
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花畑心中/120117
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