※閲覧注意 わからない、とNがつぶやいたのはあまりに唐突だったし、とっさに反応できるほど私の脳みそが働いている時刻でもなかった。しんしんと冷えこむ闇が壁のうすいこの部屋に容赦してくれるはずもなく、凍えそうな冷気から逃げるように意識は沈みかけていた。 もともと、どうにかして1日、1日をやりくりしていた私に人を養えるはずもなく、かといって犯罪歴をもつNが職を見つけることの難しさも、私の賃金の低さと同じくらい難しい。 そんなわけで、光熱費節約のためにひとつのふとんに包まり、互いに互いの熱で暖をとりながら寝つこうとしたいつもの夜。Nが落とした本音を拾うことができたのも、あるいは奇跡に近かったのかもしれなかった。 「N…?何のこと…?」 「……びっくりした。起きてたんだね」 私の背にまわっていたNの腕が一瞬びくりと強ばった。痙攣のようなそれをNの身体に引き起こしたのは、ほほ笑みさえ浮かべたおだやかな声とは真逆のものにちがいない。 寄り添って眠ることを許しあったいまでさえ、Nは私にやさしい隠しごとをする。 「わからないことがあるなら、私が教えてあげるよ。前にもそう言ったでしょ?」 「…そうだね…よく覚えてる。ボクはキミに感謝しているんだ」 「それこそ、私だってわかってる」 いつもみたいにはぐらかそうとするNの、ちからのゆるんだ腕を私はつかんだ。 ひとつの敷き布団に、ひとつの掛け布団。ふたつのまくら。不可抗力と信頼の為す、ゆれる危うい糸の上にいる気分だったのはたぶん私だけだった。それは例えばNのこころが子どもではなくなったとたんに崩れ去ってしまうだろうし、私が耐えきれなくなってしまったとたんにばらばらと壊れてしまうだろう。 引いていく腕をゆるく引き止めたつもりではいたのに、Nの長い袖をつかんだちからは思ったよりも強かった。 …ああ、ほら。終わりかもしれない。 「逃げないで」 「……なまえ」 「逃げちゃだめだよ、N」 同じことばにちがいはないはずなのに、私のくちびるが紡ぐのは理性から来ていたいつものものとは同義ですらなかった。いつだって正しいのは一般社会の見解だと、それこそ不特定多数の見解でしかない正しさを教えてきた私だというのに。 いつもみたいに本当に正確に言うのなら、私は逃げてほしくないよと伝えなくちゃいけないのに。 「…ボクは、逃げている?」 Nは腕を引くのをやめた。夜目のぼんやりとした視界がとらえるシルエットを頼りに、カーテンをバックに切り取られたNに手をのばす。 触れた頬は意外にも温かかった。ふとんのなかと違って外気にさらされる頬も髪も、いつもならひんやりしているのに。 「逃げている…、そうかもしれない」 しばらく私の手のひらの温度をはかるようにじっとしていたNはぽつりとつぶやいた。それこそ、自分に言い聞かせるように。何も答えられない私のエゴを知ってか知らずか、Nは私の返事を待とうとはしなかった。 急にだった。あまりに突然Nが動くから、あたまも身体もなにもかもついていくことができなかった。数瞬前に私の背をおだやかに撫でてくれていたはずの長い指先は私の後頭部をわしづかむようにして引き寄せ、ついさっきまで無邪気さをつむいでいたくちびるは私の鎖骨を正確にとらえている。 肩までを覆っていたはずの羽毛布団がはがされたのさえ、ひんやりした空気に素肌がふれて初めて気がついた。 甘噛むかたい歯の感触が皮膚に、骨につたわって背筋があわだつ。 「N…!?」 仰天して私が発した声は、出したかったはずの音量よりずっとちいさく、しかもかすれていた。 「…ごめん。痛かった?」 「痛くないよ。痛くない、けど、N…なんでこんなことっ!!」 私のかすれ声にあわせるようひそめられた吐息が首筋に当たったと思えば、こちらが話している途中だというのに噛みつかれたところを舐められて声が跳ねる。 それが面白かったのか、ふっと楽しげな息をもらしたNは私の首筋にくちびるをよせたままかすかに首を振った。若草色のふわふわした髪の毛が、薄墨に染まって私の頬を撫でる。 「わからない…。だけど最近こうしていると、どうしようもなくキミの香りにたまらなくなるときがあるんだ。おかしいんじゃないかと思ってずっと隠していたけど…」 耳のすぐ下でささやかれ、まわらなくなりはじめた脳みそに追い討ちをかけるように、Nが再び首筋をたどってくちびるを落としてくる。 思考はまっしろに染まってしまった。 「ボクは逃げないよ。なまえがそう望むなら」 なにもかも見透かされていたと気がついても後の祭りだってことくらい、いつものすべてが粉々になった瞬間からわかっていたはずだった。 111230
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