仕方のないことだってわかっているのに、どうしようもなく下がりつづける気持ちから目をそらすことができない。残された時間は厳密に言えばあと5時間だけれど、私にとってはないも同然だった。ふだん、夜は静かなエンジュシティも今日だけは、行き交う子どもたちの弾む声が目立つ。 マツバさんは私よりもずっとおとなだしジムリーダーだから、時々出張がはいることもあれば、休日が返上になることだってある。特に今回は、本場でさえふつうに出勤日であるハロウィンに出張がはいるのは仕方のないことだった。 ごめんねと困ったように眉尻をさげ、私に目線をあわせて微笑むマツバさんに、いい子ちゃんぶっていってらっしゃいと笑った自分すら色褪せて脳裏に浮かぶ。どちらにせよ、マツバさんには私なんかのつよがりはお見通しなんだろうけれど…寂しいものは寂しいんだからどうしようもない。 今となっては別れぎわにくれたキスのやさしさこそが胸を締めつけてくる。 いつのまにこんなにマツバさん依存症になって、たった1泊2日の出張でさえ死にそうになってるんだろう……客観的に見ればかなり笑えるかもしれない。 真っ暗な午後7時、あちこちから香る夕ご飯の匂いを泳いだ。 「…はい…?」 『もしもし』 とつぜんやわらかな闇を切り裂いた着信音にあわてて、ディスプレイもたしかめずに通話ボタンを押した私の耳に流れこんできたなつかしい声。縛りつけられたように苦しかったこころが息を吹き返すようにすら感じられて。 マツバさんはやわらかく私の名前を呼び、いま講義が終わったよと教えてくれた。 『さすがにヤマブキシティはすごいね。たくさんの人とビルと、ネオンサインが混在しているんだよ』 「ネオンサイン…ですか」 『うん。エンジュではほとんど見られない、人工のひかりだ』 やさしい声の向こうで、やさしく風が切れる音がする…外にいるのかもしれない。今夜は星がきれいだね、の文字列が流れこんでくるだけで、ふしぎなほどマツバさんが微笑んでいるのがつたわる。 あちこちにハロウィン飾りをちりばめた通りを歩きながら見上げてみれば、若干雲がかかって見えない星にくらべて、明るく輝いているのは月以外になかった。 「マツバさん…」 『ん?』 思わず会いたいです、とこぼしそうになってあわてて飲みこむ。いつも甘やかしてくれるマツバさんに、いつもこんなんじゃダメだとわかっていて甘えてしまう。大人になりたいのなら、大人になる努力をしなくちゃ…ただ年を重ねただけじゃ、マツバさんみたいに素敵な大人にはなれない。 わたしはマツバさんのとなりにならんでもおかしい目で見られないくらい、大人らしいおとなにならなくちゃいけないんだから。 『…もしもし?』 「あ…すみません。べつに何でもないんです」 『我慢なんてせずに言っていいんだよ』 「いいえ、だいじょうぶです!」 もっと、強くならなくちゃ。今まではもっときれいになりたいとか、スタイルよくなりたいとかばかり思っていたのに、ふと自然にそう思えた自分がいてびっくりする。そっか、私に足りなかったものって根本的なものだったのかもしれない。…もちろん、きれいになりたい気持ちは変わらないけれど。 拍子にぐっと強まった語尾を聞いたマツバさんが、電話のむこうで笑った。かたわらをかぼちゃ帽をかぶった子どもたちが通りすぎていく。 『…なんだか、置いて行かれたような気がするな』 「えっ、置いて行かれたって…どういう意味ですか?」 『いや、大したことじゃないよ。…僕もがんばらないとね』 「そうじゃなくて、マツバさんはむしろちゃんと寝てください」 『うん、そうだね。ありがとう』 今だってまたおかしそうに笑ったマツバさんが一見しっかりしてそうに見えて、実は丈夫な方ではないのに無理をして身体を壊しがちだったり、自己管理が苦手だったりすることを知ったのはもうずいぶん前の出来事だけど、それだけちゃんと積み重ねてきたたくさんの時は、たしかに私たちのあいだに何かを形づくっている。 不安を消すことはできなくても、不安がることなんかないよと抱きしめてくれた夜を思い出すことができるんだから。 「…明日も講義をするんですよね」 『うん。午前中にもう一度だけ初心者向けの講義をして、おみやげを買って帰るよ。オーキド博士にお会いする予定があるけれど……、たぶん9時過ぎにはコガネに着けるかな』 あたまのなかでスケジュール帳を開こうともせずに迎えに行く、と口に出そうとした私が見えているように遮って、マツバさんはやさしくことばをつづけた。 『次に会うときには、ちゃんと甘いものを用意して会いに行くから』 もしかしたらいちばん私を子ども扱いしているのはマツバさんなのかもしれないと気づいたけれどやっぱりうれしくて、私は笑った。 111104
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