もしもうすこし早く出会えていたら、もしマサキの就職先がちがったら。 もし私が、マサキとおなじ学年に生まれていたら…、私たちのあいだにもうすこし安らぎはあったのかな。 「あほ。もしものはなしをそないぎょーさん並べたところで、現実はなんも変わらへんで」 私の等身大のせつなさがつまった問いかけを、マサキはブラインドタッチで流れるようにキーボードをあやつりながら鼻で一蹴した。 時刻はいちにちのなかで最もおだやかなはずの時を刻もうとしてるっていうのに、マサキはいつだって朝から晩までこの調子。思えば私がマサキに出会ったときだってこんな感じだったし、むしろ私の記憶のなかで、マサキがパソコンから離れていたことがあるのかすら怪しい…っていうのは誇張しすぎかもしれないけど。 だけど、ふたりで囲むのがぎりぎりのちいさなダイニングテーブル席に座って、何をするでもなくマサキの背中をながめてるなんて…これふつう、恋人同士のすることじゃないよね? 最近になってようやく気づいたんだけれど、マサキっていわゆる「釣った魚にエサはやらない」タイプなのかもしれない。マサキほどの社交性と頭脳があればきっと人並み以上の恋愛経験はあるだろうに、特にうわさを聞かないのはもしかして、恋人はパソコンだったとか……いや、でもまさか。 「……マサキってさ、」 「ん?」 「いつからパソコンいじりはじめたの?」 「せやなー…今日はちゃんと6時に起きたさかい…、7時くらいやな」 私の質問をとらえ間違えた回答にボケって言ってあげてもよかったんだけれど、それよりも初めて聞いたことに私の興味はひっぱられていってしまう。 マサキって起きてから1時間のあいだ、何してるんだろう?起きたらそのままデスクに直行するんだと思ってた。 マサキが最後の一文字を打つときのクセ、エンターキーのひときわ大きなタイプ音に重ねて、私は思わずその素朴な疑問を口にだしてしまった。 「おまえな…、わてのこと何やと思っとるん?」 「えー…、仕事人間?」 「あほ」 アホはマサキでしょ、と出かかったことばをさえぎるように立ちあがったマサキは、仕事に一段落ついたからか伸びをしながらキーボードのかたわらに置いてあったマグカップを手にキッチンへ向かう。 ダイニングテーブルは小さいけれど、マサキの家は広い。広くて、そしてとても機能的だ。現代的なデザインのワンルームについたキッチンはもちろんカウンター式。コポコポと軽やかに歌っていたコーヒーメーカーからマグにそそぐキリマンジャロはやっぱりブラック。 ずきんとする心臓は私が…、マサキが一蹴した「もし」の例え話にひどくあこがれてることを示している。 マサキにもうすこし、時間があったなら。私とマサキの歳が近かったなら。例えばもし、私がブラックコーヒーを飲めたなら… 「ん」 こと、と小石みたいな音を立てて目の前に置かれたのは、この前、ほんのすこしだけ取れた時間をマサキが私にくれたとき、いっしょに買いに行った赤いマグカップ。なかでひかえめにゆらゆらゆれているのは暗黒物体で…、親切なのか、私をからかおうとしてるのかどっちだろうと訝しんだのも一瞬のことだった。 赤いマグのとなりに自分のマグも置いたマサキは、私が顔を上げるよりはやくきびすを返す。 「…マサキ、これ…」 「それで堪忍な」 白くてクリーミーな粉がたっぷりつまった瓶をキッチンから持ってきたマサキは、受けとって唖然とする私を見て、まぬけ面と笑う。 いつもなら、私はマサキの家でコーヒーを飲めない。ミルクがないからだ。時たまマサキの職場にお邪魔した先で、私がミルクと砂糖をたっぷり入れて飲んでいるのを顔をしかめながら見ていたから、私も自分から持ち込むのをやめていたのに。 「…いいの?」 「ええも何も。そこにあるんやから使うてもらわんと困るわ」 ぞんざいな言い方が照れ隠しだとわかったのは、そのままテーブル席に腰を下ろしてマグカップにくちをつける横顔の耳が赤くなっているのが、くせのある茶髪から透けて見えたから。 とたんにもう、大人でも子どもでもいいような気がしてしまう単純で子どもな私は、浮かんでくるうれしさを隠し切れなくて。 「こら待てなまえ、何笑っとるん」 「ん…ううん、うれしいなって」 「そんな笑い方とちゃうやろ」 「ほんとだってば。ね、お砂糖はどこ?」 さらさらのミルクが暗い色にしずみ、溶け合ってやわらかくなるのをスプーンで3回かき回す。 どうにかごまかすためにとびきりの笑顔で尋ねれば、マサキはしぶしぶながらも流し台の下を指してくれる。 「まったく…、なまえには適わんわ」 「えっ?」 立ちあがって取りにいこうとしていた私がふり返る間なんて与えられなかった。ぐいっと片腕を引かれて、倒れる!ととっさに強ばらせたからだはいつのまにか立ち上がっていたらしいマサキの腕に支えられる。 振り向きざまなのにびっくりするくらい正確に触れあうくちびるはいつものように苦くて、大人の味がした。 エセ関西弁すみません
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