novel | ナノ

波のおさまった水面に足だけ浸して、けれど音は立てないようにゆっくりけり上げる。

となりでるりちゃんが同じように水をかきまわしているのを視界の隅にとらえながら、私は反対側のプールサイドに集まったよっつの人影を見つめた。


「これ、明日から3日間のメニュー渡しておくよ」
「俺たちがいない間は雄馬と楠木が部長、副部長だからな、しっかり頼む」
「はい、分かりました!」
「任せてください!」


すらっと伸びたふたりの背中はもうずいぶん見なれたもので、彼らに対峙するふたりの顔は使命感と誇りできらきらして見える。修学旅行のあいだだけの引き継ぎとはいえ、これも立派な儀式なのかもしれない…堀木の黒髪がかかるがっしりした肩と、なっちゃんの茶髪に、ななめに入ってくる陽が落ちている。

水泳をやってる子は大体、塩素で色素が抜けてしまう。小4から競泳を始めているるりちゃんもなっちゃんもかなり茶色いし、中学からはじめた私ですら、ふつうの子に比べたらかなり茶けているほうなのに、どうして小1からやってるはずの堀木の髪はあんなに黒いんだろう。


「…堀木って、髪黒いね」


今まで考えたことなかったけど、と、ふと浮かんだ疑問が勝手に口をついて出た。それにはじかれるように顔をあげたるりちゃんは、私がことばを発するとは思ってなかったのかな。

屋内プールは声が反響してしまうけれど、さっきから引き継ぎをしている4人の声が大きいから、そこまではひびかないはずだけど…こんなにびっくりするなんて、今まで堀木のことを考えて水面を見つめていたのかもしれない。

こちらに飛んでくる視線にあわせてふり向いたら、今度はるりちゃんの方が水面を見つめるように視線を落としてしまった。

私のたてた波紋と、るりちゃんのけっ飛ばした水滴の波紋が入り交じって干渉を起こす。


「…昔からって言ってたよ」
「へぇ…、そうなんだ」
「うん。本人は茶色くなってほしいんだけど、ならないんだって。色素が濃いから」


ぽつり、とるりちゃんが返事を返してくれる。堀木がどういういきさつでそれを彼女にはなしたのかは知らないけれど、うつむいたるりちゃんの横顔はどこか緩んでみえた。ふんわりとした空気が心地よくて…きっと、しあわせなんだろうな。

水泳帽は外したものの、お互いに部長、副部長を待っている私たちはシャワーもまだだ。なっちゃんくらい髪がみじかいならともかくも、それなりに長い私たちの髪の毛はくしゃくしゃになってしまっているのに…それでも、るりちゃんはどこか、きらきらして見えた。

しあわせオーラって、こうして目に見えるのかもしれない。だから、彼氏彼女ができて急にモテるようになる子がいるのかもしれない。


「ふたりとも、お待たせ」
「終わった?」
「ああ、終わったよ。これで心おきなく旅行に行ける」
「堀木、その言い方おかしいよ」
「ばっ、いいんだよ意味は伝わるだろ!」


ぴょんっとうれしそうに立ちあがったるりちゃんに微笑む堀木のことばに、なっちゃんが容赦なくつっこむ。あわてる堀木の顔は恥ずかしいのかほんのり赤くなっていて、にやにや笑うなっちゃんとのやりとりに、るりちゃんが心底おかしそうに笑っている。

なっちゃんと堀木はいつもこんな感じで、結構しっかりしてるはずの堀木の抜けているところを、こうやってなっちゃんがおちょくりながらもフォローする、そんな流れで水泳部はうまく流れてきた。

だけど、…本当は、こんなに居心地のいい空間がつくられたものだなんて、だれが知ってるんだろう。いちばん近くでこの図を見てきたはずの私ですら、変化がおとずれるまで気づかなかったのに。


「るり、校門で待ってるな」
「うん、わかった。じゃあまた後でね」
「おう。おふたりさんも、じゃあな」
「バイバイ」


シャワーをあびてさっさと更衣室に引っこんでいく堀木にひらひらと手を振って、私たちはタオルを身体にまきながら、堀木とは反対側の出入り口、女子更衣室にむかう。

さりげなく堀木の口からとびでた名前をひやかすなっちゃんの声と、それを恥ずかしがるるりちゃんの声をぼんやり聞きながら、うす暗い更衣室でさっさと制服に袖をとおす。水にも浸からずに待っていたせいかずいぶん身体が冷えてしまっていて、触れる衣ですら温かい。

堀木が待ってるから、とあわてて出ていったるりちゃんを笑顔で見送って、それからなっちゃんはスローモーションのように笑顔を消した。火にあぶられたろうそくがだんだん溶けていくように、ゆっくりと。


「…ねえ、なまえ」
「んー?」
「男子のあいだで密やかに立ってるうわさ、知ってる?」


しばらく黙々と、交わすことばもなく帰り支度を終えたなっちゃんが投下した声に、私は動きをとめた。こちらを見るなっちゃんの目は、ながい前髪と暗い蛍光灯のせいか、よく見えない。
110915
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