novel | ナノ

ざあっとバケツをひっくり返したような雨が降りこめて、私はびしょびしょに濡れた傘を片手に濡れた肩をはらうワタルさんにあたまを下げた。


「あの…すみませんでした」
「いや、俺は大丈夫だから気にするな」


にこ、とまるで安心させるように浮かべてくれるほほ笑みは少年みたいで、あのするどい龍のようなひとと同一人物にはとても見えない。どうやらワタルさんは、たくさんの表情を持っているらしい。

天気予報がうそをつくのはいまに始まったことではなかったし、家を出たときに空気が湿っているのは感じたというのに…今日に限って信頼してしまったアナウンサーをちょっと恨んだのは、数十分前のこと。いまはこんなに感謝してる。というのも、リーグに勤めているといってもただの事務職員のひとりだから、周りのひとに羨まれるくらいチャンピオンに近づけるかといったら言わずもがな答えはノーだったから。

ぽつぽつと降ってくる雨に困っていたら、帰宅時間のかさなったらしいあこがれのワタルさんに声をかけられて、……自分でも信じられないことに、ワタルさんの傘に入れてもらえることになって。


「それにしても、…困ったね」
「そうですね…傘も役にたたないくらいの雨なんて」


…そう、いっしょに帰路についたところまでは、私の心臓だってばくばくあばれるくらいの余裕があった。だけどこうもひどい雨だと話はべつで、とても傘ひとつで帰れないようなどしゃ降りに、結局私たちは雨宿りにと、ひとけのないバス停の屋根下にとどまることになったのだ。

私が相づちを打ったとき、ひゅうっと突風が吹いて雨が舞う。

きらきらひかりながら飛んでくる雨粒に思わず身をひいたら、ばさりとマントをひるがえして間に入ってくれたのはワタルさんだった。


「おっと…大丈夫かい?」
「あ…、ありがとうございます」
「どういたしまして。風がつよいな」
「はい、そうですね」


さっきよりも近い距離に、おもわずうつむいてしまう。さっきまではこの狭い屋根の下で、何か話さなくちゃって必死だったのに…あっという間にそれどころじゃなくなってしまった。顔をあげれば雨のしたたる赤い髪がながい睫毛にかかっているのが見えてしまうくらい近いから、むやみに上を向くこともできない。

つよい風はもうしばらくの間おさまっているというのに、ワタルさんは私を抱きかかえるようにかばったまま、そこを動こうとはしなかった。どうして…なんて、いっぱいいっぱいの私に考えられるはずもない。


「…寒くない?」
「だいじょうぶ、です…ありがとうございます」
「……もしかして、緊張してる?」
「えっ?」


たっぷり観察するような間をあけてワタルさんが落としてきた問いが、あまりにこころを見透かしたようなことばなものだからびっくりして顔をあげてしまった。

とたんに後悔するはめになるのは言うまでもなくて、実際、内の赤いやわらかなマントに包まれているようなかたちになっていた私のひたいは、こつんとちいさな音をたててワタルさんのそれにぶつかる。

あまりに間近なつよいひとみは、私の網膜からするりと体内にしのびこんで心臓をわしづかんだ。


「困ったな…きみにそう思われるのはいやだったんだけどな」
「…どういう、ことですか」
「理想とか、イメージとかさ。持ってるだろう?『チャンピオン』に対して」


低く落ちてくる声が甘くしめっているのはきっと、雨だから。こんなひどい雨だからだ。そうおもわないと意識が飛んでしまいそうなくらい鼓動が激しくなっている。…ううん、この激しさは、雨音?

問われたことを考える余裕なんてもうなかった。もしかしたらワタルさんは、答えを聞く気がなかったのかもしれない。


「大抵のひとの言う『チャンピオン』は大人で、クールで、緊張なんて言葉とはきっと無縁なんだろうけど…俺はそんなに大人ではないし、ずるいし、これでも緊張する質なんだ」


本当はきみが傘を持っていないことも知っていたし、きみが帰る時間になるまで待っていたんだよ、って言ったらいやかな…?

手首をつかまれ、そっと導かれる鼓動は私ほどではないにしろ早くて、ちょっと自信なさそうに下がる眉尻がこんなに可愛らしく見えてしまうなんて、…ワタルさんが持つこんな顔を知ってるのが私だけならいいのに…。

ゆっくり首を振って、それから気がついた。…あれ、あこがれが恋に変わるのってこんなに速いものなの?
20110913~20110924
いち、に、さん
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