「先生、状態方程式のこれ…なんですけど…」 「ん、どれどれ」 化学がわからないと泣きついてきたなっちゃんに教えるうちに、私自身の抜けてしまっている盲点も見つかる。他人に教えることが有効だって、たしか前に…。 ひょんなことからぷかりと浮いてきそうになる名前をあわてて沈めた。先生はちょうど、書き込みだらけで見づらくなった私のプリントをのぞきこんでいたから気づかなかったみたいだけれど。 「ああ、このRは気体定数っていうんだよ」 「定数…?」 「うん。つまり、決まった数値だね」 先生は机のなかから持ってきた裏紙とペンを取りだして、さらさらと走り書きをはじめる。職員室前のフリースペースに置かれたおおきなテーブルで、かがむようにしてそれをのぞき込みながら説明をあたまに入れていくのは、あの日から何度もくり返されてきてもはや日常の一部になっている。 変わったのは窓の外の景色と、ひとの数だけ。テスト前だからか、いつもの倍くらいひとの出入りが多い。1週間前で生徒は職員室のなかに入れないから、入り口で先生を呼びだす。 あわてているのは生徒だけじゃないみたいで、プリントをたくさん抱えて出てきた国語の先生が、ひたいにじんわり汗をにじませているのがここからも見えた。ガラスのむこうでは、木枯らしが吹いている。 「…と、いうことになるわけだ。わかるかい?」 「あ…っ、すみません、もう一度お願いできますか?」 「集中できてないみたいだね」 はっとした私を見あげた先生は、怒ってはいなかった。ただ、メガネの奥のひとみがやさしい温もりをもってこちらに何かを訴えかけている。 まるで魔法みたいに、ざわざわとうるさいほどに満ちていた雑音がとたんに気にならなくなった。 「…いいえ、すみません。だいじょうぶです」 「きみはちょっと、根をつめすぎているような気がするよ」 見透かされたような錯覚に陥ってどきりと、心臓がいやな跳ねかたをする。だって、でも…まさか先生がしってるはずがないのに、何で焦ってるの、私。 とっさに何も言えなかった私からプリントへ視線をもどした先生が、余白に説明をざっと書き加えながら再びくちをひらく。 「まあ、学生時代は悩むものだけれどね」 つぶやくようなことばは、あるいは先生自身に向けられたことばなのかもしれなかった。迷いなくすらすらと式を生みだしていく赤ペンの先がにじんでみえる。きっとこのペン先は、この式を古くからしっている。私なんかより、ずっと。 ぱちんとペン尻をノックしてふり返ったひとみはすでに化学教師の表情へともどっていて、けれどさっきよりゆっくり、ていねいにしてくれる説明はわかりやすかった。 「あ!なるほど、わかりました!」 「それはよかった。他に聞きたいところはないかな、だいじょうぶかい?」 「はい、今のところはここだけだったので…ありがとうございました」 「またいつでもおいで」 私のお礼に手をあげて、先生は職員室にもどっていく。それを何気なく見送っていたら、生徒と教師でひしめきあう出入り口につんつんの茶髪がちらりと見えて、…鼓動が、止まりそうになった。 見つかりたくなくて、認識したとたんに背を向けた。本当はそのうしろを通ってしまえば、中央階段まですぐだったのに…急にあがりはじめた血液にながされて、あたまじゃなく感情が勝手に身体を動かしてしまったみたいに、一瞬の出来事で。 すこし遠回りして、東階段からホームクラスのある上の階にのぼるために廊下を走る。ひらたくて底のうすい上履きは走りづらくて、1歩1歩の振動ががくがくと膝から脳みそまでをつき動かしてくるみたい。なにも考えられなくて、ただ、はやくクラスに帰りたかった。 lamp/110828
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