一時間目から教室移動なんて、本当ツイてない。私の運勢は昨日から急行まっ逆さま、地獄の果て行きに乗り込んでしまったらしい。 一睡もできなかった脳みそがぼわんぼわんしていて行動も鈍くなる。友だちに迷惑はかけたくないから先に行ってもらって、私はのろのろと用意をしてひとりで教室を出た。 始業まであと2分。これは走らなきゃまずい、でも走りたくない。重い足を引きずるようにして昇る階段を、ばたばたと下級生たちが駆け降りていく。 階段ホールにひびく足音が、私の脳内にも反響してぐらぐらする。 「なまえ!」 バンッとひときわ大きな足音が真後ろでして、びっくりして少し飛び上がりつつ振り返ったら、段差で私より低い位置に、いちばん会いたくなかった人物がいた。 「…ぐ、りーん…」 「あのさ、電子辞書貸してくれねーか?」 あまりにも唐突にグリーンが言うものだから、私は投げられたことばを受け取り損ねて半ば呆然とした。 「…悪いけど、私グリーンみたいにキャッチボールうまくないんだよね」 「は、キャッチボール?何の話だよ」 怪訝そうに私を見るグリーンは、肩で息をしている。駆け上がってきたのかな…もうすぐ始業のベルが鳴るし。 「秀才グリーンが辞書に頼るなんて、いったい何の授業なの?」 隣のクラスの女の子に借りれば早かったくせに、なんでわざわざクラスの離れた、しかも教室移動中の私のところまできたんだろう。 考えたくないのに期待してしまう、もういやなのに……ばかグリーン。 仕方なく、というように持っていた辞書を差し出す手が震えていた。うれしいのか悲しいのか、つらいのか自分でもわからない。 それを受け取るグリーンは明らかにほっとしたようで、うれしそうに笑った。 「それが昨日さ、」 昨日、ということばに思わず肩が震えたけど、結局、何があったのかは聴けず仕舞い。グリーンのことばは、大きなチャイムにさえぎられる。 一瞬だけ、口をつぐんだグリーンは真面目な顔で、まっすぐに私を見上げた。私も、グリーンを見ていた。 「とりあえず借りてく。サンキュ」 「あっ、」 きびすを返しかけたグリーンが振り返る。それが昨日のやわらかい声色に重なって見えて、ただでさえずきずき痛む心臓が、止まったような気さえした。 「…3時間目までには返してね」 「わかってるって」 へらっと笑って駆け降りていくグリーンを見送って、私は最後の階段を昇る。授業はもう始まっているのに、どうしても走りだすことができない。 110205
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