サッカー部が神奈川県大会を突破してからというもの、江ノ島高校はほとんど毎日がサッカーのはなしで持ちきりだった。 だけど、その中心にいるのがまぎれもないあの荒木だなんて、私にはいまだに信じられない。デブでメガネのロン毛男、漫才研究に精を出してたあの荒木竜一だなんて。 学校側が場所と時間を提供してくれた、異例の全校での祝賀会。ファンクラブの女の子たちやサッカー部の仲間たちとわいわい騒いでいた荒木が私のところにやってきたのは、日も暮れ始めたころのこと。 ひとけの少ない廊下でぼんやり風に吹かれていた私を、よく荒木がひとりで見つけられたなぁなんて、冷めた気持ちで思った。 「よっ、なまえ」 「なに?」 「何…って。おいおい、江ノ島高校の王様にそれはないだろ?」 私が外を見ていた窓に格好つけて寄りかかった荒木はたしかに格好よくて、どこからどうみてもサッカー部のエースにしか見えない。 長身で、運動しているひとならではの程よく筋肉のついた体つき。メガネを外した切れ長の目は自信に満ちている。 たしかにあの頃から、ひそかな荒木ファンクラブがあったのは知ってたし、痩せたらすっごくかっこいいんだとか、実はサッカーがめちゃめちゃうまいんだぜ、とか、兵藤に聞いたことはあった。 もともと兵藤に誘われて見に行った漫研で、ばかみたいに笑いを取る荒木がおもしろくて、ついつい笑っちゃう私の反応がよかったのか、荒木もよく私を笑わせに来た。 だけど、いま私のとなりにいる荒木は荒木であって荒木じゃない気がしてならなくて、それがどうしてか、不思議なくらい寂しい。 「王様…って。自称じゃなかったんだね」 「なっ!」 ちょっとがっくりしたみたいな荒木がタイミングよく、窓にかけていた肘をすべらしてこける。そのノリの良さに、おでぶでメガネの荒木の名残が見えた気がしてはっとした。 私が目を見開いたことに気づかなかったらしい荒木は、よろよろと体制をたてなおして、あきれたように私を見た。 「お前なぁ…今のオレにそんなこと言えんの、お前くらいだぜ?」 「だって荒木、漫研のころからオレは王様だの言ってたから」 「…もしかして、オレのせい?」 ちょっと引きつったような微妙な表情もまた、ちらりと片鱗を見せる。 こういうノリは知っていた。 「うん」 「やっぱりそうかっ!」 大げさなまでに頭を抱えてみせる仕草も、口調も変わらない。 スタイル抜群の格好いい男の子がやってるのが違和感満載だけど、気づいたら私は笑っていた。 「あははっ、荒木、ばかみたい」 「んだとォ!?」 いつもなら軽く小突かれる頭を押さえたとたん、ぐにっと両のほっぺたをつままれた。 荒木の思いがけない行動と、触れた指の冷たさに、一瞬とまったような心臓がどくりと跳ねる。 見上げた先で、荒木はやけに真面目な顔をしていた。 「…ばーか…」 「荒…木…?」 「いきなり、距離置いたりすんなよ。……不安になる、だろ…」 だんだん尻すぼみになる声を聞くうちに、だんだん恥ずかしくなってきた。荒木の指先がどんどん冷たくなる。 廊下には不思議なくらい人がいなくて、いつの間にかちからの弱まった荒木の指が、するりとほおをすべるのを感じる。それにうながされるように顔を上げたら、思いの外近くに荒木のひとみがあった。 「あの頃は言えなかったけどさ、オレ…」 すこし眉を寄せた、初めて見る表情で荒木は身を屈めている。 心臓と吐息が止まる、その一歩手前だった。 「あ、いたいた!荒木ぃ〜!!お前にインタビューしたいって記者が!校門前にっ!」 「ものすげー数いんぞ!どーすんだ……あ」 それこそ「ものすげー」いきおいで走ってきた兵藤と海王寺が、遠目には荒木の影で見えなかったんだろう私をみとめて凍りつく。 荒木の指はもう離れていたけれど心臓の暴れはおさまらないままで、かたまった空気を溶かす方法さえ思いうかばない。 みんな動けない中で、ようやく荒木が動いた。 「…あいつら全員…ぶちのめす」 「おいっ!ちょっとまて荒木!」 どこかゆらめくオーラをまとっているような荒木が物騒なことばを最後にきびすを返し、海王寺があわててその後を追う。 すこし遅れた兵藤が、困ったように笑いながら走っていく。 「邪魔しちゃって悪ぃな!終わり次第そっちやるから!」 角を曲がりざま投げかけられたことばがわからないほど鈍感でもないから、ただでさえ熱かったほおが燃えるかと思った。 開け放した窓から涼しい風が入ってくる。下方に見える校門に駆けていくふたつの影は速くて、速くて、羽根が生えているみたいだった。 Thanks;逃避行
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