かるく照明を落とした店内は、閉店まで1時間を切ったカフェらしく、温かみのあるくつろいだ空間をつくりあげている。 いつも大繁盛のカフェ・ソーコも、この時間になると常連のお客さまが数人だけの、静かな場所になる。 「アーティさん」 アーティさんはお気に入りらしいいちばん端っこのカウンターに座って、どういうわけか木目と額をこんにちはさせていた。 はちみつ色のやわらかな光をかけられて、同色系のふわふわの髪はシフォンの手ざわりを約束しているよう。 運んできたいつものエスプレッソラテをちょっと離して置いて、私はその頭に声をかけた。もぞり、と頭がうごく。 「なまえちゃん…やっぱりこっちは落ち着くね」 アーティさんは顔を上げず、私を声で識別したらしかった。頭をあげるのが億劫なのか、はたまた何か新しいゲームでも思いついたのかな。 このちいさなカフェ・ソーコでアーティさんと知り合った日から、そんなにたくさんカレンダーがめくれたわけじゃない。だけどアーティさんがそんなことをやりかねないひとだってことを知るくらいにはじゅうぶんだった。 第一印象はふんわりしたひと、という漠然としたイメージだったけど、今ではアーティストとしての射ぬくようなまなざしも、ジムリーダーとしての激しいオーラも知っている。今だって表情は見えないけれど、あまいミルクティみたいなほほ笑みがくちびるに乗っているような声色で、変わらない笑顔が想像できる。 「いいんですか?ジムリーダーが公衆の面前でそんなにだらけてて」 「……ん〜」 曖昧な声を出してかすかに首を振るアーティさん。否定ではなくて、子どものよくするそれと同じなんだってことも、私はもう知っていた。 そして、こんなふうにアーティさんが子どもみたいになるのは、ここ、カフェ・ソーコでだけだってことも。 かすかにタバコの香りがするシャンソンが漂う。アーティさんが急に首を振るのをやめて顔を上げたものだから、ことばだけがぽっかりと間を空けて私たちをのみこんだ。 「…眠いから仕方ないんだよ〜」 「…ね、眠いって…ダメですよ、こんなとこで寝たら風邪引きます」 じっと見つめられて戸惑って、ことばが転けて、乱れる。心拍数なんか音にして2オクターブくらいあがっている。そらすことなんか許されないこの目は、例えるなら、アーティストとしてのアーティさんの眼差しだ。 私のよろよろ返事を聞いて、アーティさんはまたちょっと黙った。 それから、ちいさなため息。 「なまえちゃん。ちょっとここに座って」 「え…で、でも私、バイト中で…」 「それは大丈夫だから」 いつもとはちがう雰囲気、いつもとはちがう口調に気圧されて思わずアーティさんのとなりに腰かけると、アーティさんはそのまま流れるような仕草で、ぎゅっと私の両手をつかんだ。 触れる確かなぬくもりに硬直した。ひょろっとした印象のあったアーティさんの手は、意外にも荒れている。 「ひとつだけ確認しておきたいんだけどね」 「は…はい」 「きみはだれに対しても風なのかい?」 言われていることが一瞬、うまく変換されなかった。か、かぜ…? 私の怪訝な表情をみて、アーティさんの指がつかんだ私の手をゆるゆると撫でる。やわい感覚がくすぐったくて、触れているという事実を大きくするから恥ずかしい。 真っ赤になった自覚のあるほおを隠したくてうつむいたら、するりと手が解放された。 「アーティさん…?」 「うんー?」 「もしかして、酔ってますか?」 私が顔を上げたと同時に、アーティさんの離れていった手が私の頭に到着する。 なだめるようにさらさら揺らされる髪と、ちょっとばつの悪そうな、はじめて見たひとみをしたアーティさんに尋ねたら、髪に触れていた手が止まる。 困ったなぁ、とひとりごとをぶら下げて髪を降りてきた指先が、私の毛先をひとふさ、きゅっとつかむ。それは間髪を入れずにさらりとこぼれおちた。 「酔ってたらこんなに無謀なこと、してないんだけどね」 無謀…。またよくわからない話をされて、ぬくもりが離れたことですこしだけ落ち着いたあたまをひねってみたけど、やっぱりわかりそうにない。 またクエスチョンマークをうかべる私を見たアーティさんは、今度こそいつもと同じように、わたあめみたいに笑った。 カップのコーヒーはいつの間にか熱を失っていて、だけど私の鼓動とちいさなシャンソンだけは、かすかな熱をはらんでうずまいている。 110502
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