novel | ナノ

ヒトカゲのおかげでようやく固まりかけた空気がやわらいで、お兄ちゃんはおなべを目指して歩きだす。ユウコさんは120度にかたむいた時計の針を見て、じゃあそろそろ帰るわね、と立ちあがった。つられて立ちあがった私と、あわててこちらに来ようとするお兄ちゃんに、やさしく首をふる。


「お見送りなんてしなくていいですよ」
「いえ、そんな…」
「だめですよ、こんな時間なんですから」


さすが、お兄ちゃんはことば慣れしている。

日本語から勉強しなくちゃいけないかなと思っていたら、ユウコさんはそのことばにおかしそうに、くすくす笑った。


「そう言うほど遅くありませんよ」
「…それは、言葉の綾と言いますか…とにかく、送りますから。なまえにも留守番くらいはできますし」
「ちょっと!」


さっき見直したばっかりだったけど、やっぱりお兄ちゃんよりもユウコさんの方がことば遣いは上手だったみたいで、あっさりひるがえされてしまった。それをどうにかしたいのはわかるけど、だしに使われるとやっぱり黙ってはいられない。

ユウコさんを送るための口実なんだから、とお兄ちゃんが顔をしかめて私を見る。

そんなのわかってる。だけど…ユウコさんの前でそんなふうに言われたくはなかった。


「じゃあ、おじゃましました」
「あっ、ありがとうございました!」
「本当に、助かりました。ごちそうさまです」
「いいえ、私も楽しかったです」


最後にとびきりの笑顔でにこ、と笑って、ユウコさんはドアノブに手をかける。とたんにわけのわからない焦燥が、身体をかけぬけた。いま聞かないと、こころの深いところに沈んでしまってもう聞けなくなってしまう気がする。聞くなら、…今しかない。

タイミングよくふと思いだしたようにふり返ったユウコさんの、何気なくふせられていたひとみがまっすぐにこっちに向かってきて心臓が跳びはねる。くちびるが動くのが、スローモーションみたいに映った。


「…そうだ、忘れていたけれど、言づてがあったのよ、なまえちゃんに」
「えっ…?」
「あの公園でね、謝りたいって」


そのことばが通りぬけたのはひだり側で、与えられた痛みはここしばらくのするどいものじゃなく、あまくて懐かしいものだった。

目を見ひらく間にもくり返されるそれは、全身にどんどんひろがっていく。お兄ちゃんも、となりにいたヒトカゲも、みんな私を見ているのを意識した。ユウコさんが、硬直した私に優しくほほ笑む。


「明日の10時に、中央の噴水のところにいるそうよ」


ユウコさんは私の返事を待つつもりはなかったらしく、それじゃあ、と会釈をして帰っていった。

がちゃんと無機質なドアの音がしてはっとしたときには、お兄ちゃんがカギを閉めてふり返っていた。ひとみがにやにやしているのを見て、かっと身体があつくなる。ユウコさんのことばの意味がわからなかったみたいで、ヒトカゲがかーげ?と不思議そうな声をあげているけど、それどころじゃない。


「…ま、おまえは作るのがんばったみたいだし片づけはオレがやっとくから」


そこでお兄ちゃんはことばを切ったけれど、ひとり玄関に残された私には、順接につづくことばが透けて見えてしまって、恥ずかしくて仕方なかった。

立ちつくす私のすそを、ヒトカゲがくいくいと引っ張る。それさえもデジャヴをひき起こす材料にしかならないなんて、どうかしちゃってるのかもしれない。
110629
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