シロガネ登山は私の長年の夢であると同時に、ポケモントレーナーではない私には決してかなえられることのない、あこがれにすぎない夢だった。 それがここまで生きてきてとつぜん叶うことになったのは、ひょんなことからお知り合いになった、かの有名なオーキド博士の計らいがきっかけだった、わけだけど。 「あのっ、今日一日お世話になります。なまえといいます!」 「……ああ」 いろいろお手伝いをしているうちにすっかりおなじみになったオーキド研究所で、ぺこりとお辞儀をした私に返ってきたのはそっけない返事とちいさな会釈だけ。思わず顔をあげて、博士の古くからの知り合いだという男のひと、レッドさんを見つめた。 黒い髪に赤い帽子。美貌が相まってつめたく見返してくる赤い目よりも、頭のうえにいるピカチュウの方がずっと愛想がいいみたいで、つぶらなひとみでじっと見つめてくる様子がすごくかわいい。 それきりだんまりになってしまった私たちを前に、オーキド博士はなぜか、にこにことうれしそうに言った。 「前に説明した子じゃ。よろしく頼んだぞ、レッド」 「……」 「お、お願いします…」 「ぴぃか、ちゃあ!」 博士のことばに無言でうなずいて、さっさとレッドさんは歩き出してしまう。あわてて追いかける私をふり返ったピカチュウがにっこりした。 研究所を出ると、ほんわかとあたたかい空気に包まれた。レッドさんはやっぱりふり返りもせずにすたすたとマサラタウンを出て行き、たまにピカチュウが私をちらちらとふり返ってはがんばれ、とでも言うように声をかけてくれる。 「ちょ、ちょっと、レッドさん!」 「なに」 てっきり無視されると思っていたから、あっさり立ち止まってふり返ったレッドさんに私は正面衝突してしまった。それも、はたから見ずともまるでレッドさんの胸のなかにとび込んじゃったみたいにいきおいよく。 なにこれ、初対面であまりにもはずかしすぎる失態なんだけど…! じん、と鼻のてっぺんがにぶく痛むのと同時に、とっさにつきだした両手がレッドさんの胸板を押し返していた。昼間の一番道路はひとがすくないのが、せめてもの救いかもしれない。 「…す、みません!」 「…べつに」 レッドさんは私が激突してたおれるどころか、押し返したはずなのにむしろ私がその場から後ずさったようなかたちになった。見かけは華奢にも見えるのに、意外と頑丈なのかもしれない。手に触れたぬくもりをおもいだして、またすごくはずかしくなった。まともに顔が見れなくてうつむく。 あしもとの土はやわらかな太陽に当たって、気持ちよさそうにふっくらとしている。 「…だいじょうぶなの」 「へ?」 「鼻。赤くなってるけど」 「え、あ…ほんとですか?」 「見せて」 うつむけた視界のなかに動きやすそうな運動靴が踏みこんできたのが一瞬で、なにが何だかわからないうちに、目の前が真っ白になって、そしてかげった。 「…まだ、赤い」 吐息がかすかに届く、そんな距離でレッドさんがつぶやく。真っ白になった頭で、レッドさんの影が私の顔に落ちているんだとようやく理解した。あごを固定するぬくもりを感覚がなぞったとき、急に、今まですこしも感じていなかった鼓動が爆発する音を聞いた。 かあっとほおが熱くなるのを自覚して、私はとっさにあごを引いた。するりと、レッドさんの意外にあたたかいぬくもりが離れていく。 「だいじょうぶですから!」 「……」 「ぴーか?」 レッドさんの頭からすこし距離のひらいた私へぴょんっととび移ってきたピカチュウを受け止める。小首をかしげるしぐさがかわいくて、図らずもほおがゆるんだ。 「えーと…心配してくれてるの?」 「ちゃあ!」 「ありがとう、だいじょうぶだよ」 「でも、顔も赤いけど」 ほおに手を添えてくれるピカチュウにすこし心臓がおちつきかけたのに、さっきまであんなに話さなかったレッドさんが口をひらいたからびっくりしてまた心拍数があがってしまう。 「……それは!」 「それは、何」 「それは、…えーっと…」 レッドさんのせいですなんて言えるはずがなくて口ごもる。困って目の前の黒い目をみつめていたら、ひょいととりあげられた。 「遅い」 私の腕からピカチュウを奪い返したレッドさんは、ことばと裏腹になぜだかおかしそうに笑っている。 そういえば研究所を出てからレッドさんの表情が崩れたのは初めてだったような気がしたけれど、そのおどろきも、自然にそっとつながれた手にくらべたら取るに足らないものだった。 登山はおろかシロガネ山そのものすらまだ見えないのに、今からこんなに動悸がはげしいなんてちょっと心配かもしれない。 ……わかばさんに捧げます!
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