novel | ナノ

ピンポーン、と聞きなれたチャイムの音が転がって、お母さんがあわただしく玄関に出ていく。

最後にもう一度だけ姿見で最終チェックをして、暴れる心臓をぎゅうぎゅうに押さえこみながら、私もそのあとにつづいた。


「…なまえちゃん、こんばんは」
「こ…こんばんは」
「まったくあんたは柄にもなく緊張しちゃって、今さらじゃないの。ねぇ、マツバさん?」
「いえ、僕も緊張していますよ」
「あらまぁ、本当に?」


緊張していると言いつつも、玄関に立つマツバさんは、ぺらぺらと好き勝手にしゃべるお母さんと穏やかにことばを交わしている。

お母さんの言うとおり今さらでも、マツバさんが私を迎えに来てくれるなんて事実がいまだに信じられないんだから、緊張しないわけがなかった。靴を履くのすらてこずっている私をみとめて、会話を止めたマツバさんがしゃがみこんでくれる。


「大丈夫?」
「あ…、はい。すみません」
「手伝うよ。ほら」


片膝を立てたマツバさんが、そっと私の足首に触れ、するりと靴を履かせてくれる。早業に身動きもできなかった私の頭上で、お母さんはどんな顔をしてるんだろう。

触れられた足首が、心臓になってしまったみたい。

ひらひらと手を振るお母さんをきちんと見れないまま、マツバさんに手を引かれて、私は夜の闇に漕ぎだした。

はじめの方こそ真っ暗に見えたけれど、目がなれてだんだん心臓がおちつくのにつれて、不思議なほど月があかるいのに気づく。

しばらく無言であるいてくれたマツバさんは、あるいは私の心臓の音に気づいていたのかもしれなかった。


「寒くない?」
「あ、大丈夫です」
「じゃあ、緊張してるのかな」


すこし笑み混じりの声が、さらさらと粉砂糖の甘さを含んで降りてくるような錯覚を起こすほど、今日の私は緊張しているみたい。

ずばり心境をあてられて思わず見上げたら、月あかりを孕む金糸の髪の奥で、細められた視線と目が合った。


「ん?」


そのままちいさく首をかしげる動作にまでどきりとするのは、夜に会うのが初めてだからなのか、月があかるすぎるからなのか、はっきりはしないけれどどっちかのせいには違いない。

何でもないですと首を振りながら、マツバさんが苦笑するのを見ていた。


「なんだか…困るな」
「え?」
「なまえちゃんが無防備すぎるから」


無防備というよりも緊張しているだけなんだけど、困るなんて言いながらほほえんでいられるマツバさんに素直に言うのはなんだか悔しいから、私も無理やりほほえんだ。


「マツバさん、緊張してるんじゃないんですか?」
「してるよ」
「……嘘ばっかり…」


いつもマツバさんに言われて困ることをしようと思ったのに、なんだかあっさり肯定されて拍子抜けする。

そんな私を見ておかしそうに笑うマツバさんに、さらに悔しくなる。


「うーん…本当なんだけど、なかなか信じてもらえないね」
「そうやって笑ってるからですよ」
「そうかな?」
「絶対そうです!」
「じゃあ、笑わないほうがいい?」


力説したあとの思わぬ切り返しに、あっさり主導権をうばわれてことばに詰まった。そういうわけじゃないと言おうとして、マツバさんの頭に軽やかに落ちてきた花弁に目が止まる。

いつの間にか目的地に着いていたみたいで、夜桜はひかえめな月あかりに照らされて、ひそやかに、少しずつ色を落としていた。ふわりとやさしく吹いた風は、あわく色づいた地面にさざ波をたてている。

人の少ない、有名なスポットではないからこその光景に、詰まったことばさえもさざ波に溶けてしまった。


「すごい…!あるくと地面に落ちた花びらが波紋みたいに広がるんですね!」
「…そうだね」
「私、こんなの初めて見ました……マツバさん?」


駆け出してみたくなった私は、つないだ手をすこし強めに引かれてふり返る。

瞬間的に、ぶつかりそうなほど近くでマツバさんの怖いほど真面目なひとみに出会った。


「すきだよ」


ささやくような吐息が私のくちびるにぶつかり、つづけて追いかけるように降りてきたくちびるがやさしく触れる。

離れていくぬくもりと同時に、反射で瞑っていた目を開いたら、やっぱりマツバさんは目を細めてほほえんでいた。

金糸の髪についていたはずの花びらはもうどこにも見当たらないのに、私の髪についていた花びらを取ってくれるマツバさんの指先は、夜風と同じくらいやさしい。

…びーちゃんに捧げます!
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