ただ見てるだけで良かった。
毎朝ほんの少しだけ、一瞬だけ近付く時間を大切にしてるだけで良かった。
(話しかけたのが間違いだった…)
困ってた様子だったからついこちらから話しかけてしまった。するとどうだろう。
「鏡ちゃんっていつも何の本読んでんの?」
毎朝話しかけられるようになってしまった。
うっかり名前まで教えてしまって、もう自分が何をしたいのか分からなくなってきた。
わざわざ朝の公園なんかで読書してるのは静かで捗るから。ただそれだけ。
この人が同じ時間帯に走ってるのを知ったのは随分と後のこと。
気付いた後もなんとなく見るくらいで、それが本題にすり替わったワケじゃない。
こんな風に話したいと思っていたワケでは決してない。
「…今読んでるのはこれ」
それでも話しかけられれば無視は出来ない。
これも何かの縁だと割り切って、私は本のカバーを外してその人の質問に答える。
「えっと…?」
「ヴィトゲンシュタインの論理哲学論考」
「???」
確かにメジャーな本ではないけれど、そんなあからさまに理解不能みたいな顔をされても困る。
「見てみる?」
百聞は一見に如かず。それ以上の説明が面倒くさくなった私は本を手渡した。
「うっわー数字がいっぱい!数学の本?」
「タイトルに哲学ってあるでしょ」
「哲学って数学なの!?」
「………」
この人とは絶対に合う話題がないような気がする。きっと向こうもそう感じているはずなのに。
「今日は何の本読んでるの?」
この人は本当に懲りないというかめげないというか。
昨日も一昨日も会話なんて成立してないような気がするのに、今日もまた話しかけてくる。
「空想科学日本昔話読本」
そして私も、懲りずにまた正直に答える。
面倒くさがりな自分だけど、この人と話すのは嫌いじゃない。
特別に話したいワケじゃないけど、毎日同じ時間帯にここに来てる。
矛盾だらけだ。
「昨日のとは違うヤツなんだ。どんな本なの?」
その矛盾は、きっとこんな風にこの人なりの興味を示してくれるから起きるんだと思う。
プロの選手なのに私みたいな一般人との会話も覚えてたりして、マメというか気さく。
こっちの話しも一応は聞いてくれてるみたいだからつい話してしまう。
「桃太郎のおばあさんはとてつもない怪力だったとか大真面目に書いてある本」
「へー!面白そう!」
素直で誠実な人なんだと思う。会ってほんの数日だけどそれは分かる。
まあ、分かったから何だというものでもないけど。
「興味があるなら貸そうか?」
「それはいい!」
さっきの分析に追加。この人はいつでも元気。否定ですらも。
「何で?」
「んーとさ、俺」
そうだ。話すようになって分かったことがもう一つ。この人は表情がコロコロ変わる。
逡巡の表情が笑顔に変わるのを見て、それを思い出した。
「俺、鏡ちゃんに内容教えてもらうのが好きなんだよね」
言葉を交わすたびにこの人ことを少しずつ知っていく。
そして、この人についての認識を上書きしていく。
一瞬よりも長い時間を、毎日少しずつ積み上げていく。
それは見てるだけよりも楽しいこと
言葉を交わすたびに、見てるだけでいいなんて嘘が薄まっていく。